∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その10)

2006-07-27 12:45:27 | C-3 >山川山形水野

                豊烈神社紋(山川水野家紋) 写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん



水野三郎右衛門元宣(その10)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

15.各藩の主裁者と処分
(1)三郎右衛門の処刑と共に、各藩の主裁者も次のように同刑に処せられた。

  会津藩  保科彈正忠の家来    萱野権兵衛
  仙台藩  伊達亀三郎の家来    但木土佐、坂英力
  村上藩  内藤三郎の家来     鳥居三十郎
  盛岡藩  南部彦太郎の家来    楢山土佐
  村松藩  堀貞治郎の家来     堀右衛門三郎、齊藤久七

 上記七名は三郎右衛門と共に刎首の刑に処せられたが、この他に同一の刑を科せられた者が次の九名であるが、これらの者は処分前に戦死もしくは病死し、すでにこの世にはなく、また守山、中村、三春、福島、上の山、亀山、一ノ関、羽黒、八嶋、天童の各小藩はいずれも藩主および藩臣の謹慎に止められた。

  米沢藩  上杉式部の家来     式部長門
  二本松藩 丹羽五郎左衛門の家来  丹羽一學、丹羽新十郎
  棚倉藩  阿部本之助の家来    阿部内膳
  長岡藩  牧野鋭橘の家来     河合継之助、山本帯刀
  庄内藩  酒井徳之助の家来    石原倉右衛門
  会津藩  保科彈正忠の家来    田中土佐、保内蔵之助

(2)三郎右衛門の処刑当日、明治二年(1869)五月二十日に、山形藩老、藩士等もそれぞれ処分された。
 山形藩 (川瀬同氏作成)
[役名] [氏名]   [処罰内容(家督は半額に)]  [申渡月日]
目付  笹本籐馬 役儀・知行召上、永蟄居 5月20日
老   志賀淺右衛門 役儀取上、隠居、永蟄居 5月20日
老   石原平治右衛門 役儀取上、隠居、永蟄居 5月20日
先手頭 山田大衛 役儀御免、馬廻席、謹慎 6月14日
先手頭 松野尾政右衛門 役儀御免、馬廻席、謹慎 6月14日
先手頭 水野藤五 役儀御免、馬廻席、謹慎 6月14日
先手頭 劔持豐太郎 役儀御免、馬廻席、謹慎 6月14日
年寄  足利山海郎 退役、近習席、謹慎 6月14日
年寄  拝郷五左衛門 退役、近習席、謹慎 6月14日
年寄  水野小河三郎 退役、近習席、謹慎 6月14日
(上記の外、目付、名代、隊長など十数人が処分されたもようである)

山形藩主父子に対する処分(括弧内は年月日)
 藩主 水野和泉守忠弘
       謹慎(01.12.13) 宥免(*2)(02.05.26) 168日間
     水野越前守忠精
       謹慎(01.12.13) 宥免(02.01.12)  30日間

16.藩主父子の在京 (川瀬同氏著作と『丕揚録』を原書とする)
 この混乱期に、なぜ藩主父子が上京していたのか、その経緯を示す。
♦文久二年(1862)03月15日  水野忠精31歳で老中就任。
♦慶応二年(1866)06月19日  忠精35歳で老中を罷免。
♦慶応二年(1866)07月20日 将軍家茂薨去。(家茂治世下での忠精の登用了)
♦慶応二年(1866)09月25日 忠精隠居。
♦慶応二年(1866)09月29日 二男忠弘が11歳で家督相続。
♦慶応三年(1867)04月16日 忠精は6日に江戸を発ち、赤湯温泉で湯治を終え、山形に帰着。
♦慶応三年(1867)10月 十万石以上の諸藩は京に召喚命令。多くの大名は疾病を理由に入京の延期を請うたり、老臣を入京させ形勢を観望。忠弘も幼少と病を理由に値賀七左衛門を江戸から京に送る。
♦慶応四年(1868)03月05日 忠精は山形を出立するが通行不能で戻る。
♦慶応四年(1868)03月19日 会津・庄内藩討伐のため、九條道孝を総督とする奥羽鎮撫軍が松嶋湾に上陸。
♦慶応四年(1868)03月22日 忠精は家来水野式膳の名で山形を立ち29日江戸着。
♦慶応四年(1868)04月19日 天童藩主は国許に隠居した前藩主が居るのにも拘わらず庄内討伐を理由に帰国を願い出る。
♦慶応四年(1868)04月11日 江戸城開城。
♦慶応四年(1868)04月21日 忠精は広忠を補佐し江戸を出立。
♦慶応四年(1868)閏4月12日 忠精は広忠と共に京都に到着。
♦慶応四年(1868)閏4月17日 志賀淺右衛門等が藩の意向をもって藩主の帰国を願いに京に上る。
♦慶応四年(1868)閏4月22日 天童藩主は帰国を許され着城。勤王藩として鎮撫軍の先導を命じらていた。
♦慶応四年(1868)閏4月28日 忠精、広忠は初めて参内し御機嫌を伺う。
♦慶応四年(1868)05月09日 忠精、広忠は再参内し制約を為す。
♦慶応四年(1868)05月22日 忠精の帰国を朝廷に願うが許されない。淺右衛門は藩主の手紙を持って江戸へ向い、後から国を出た藩士六名と一緒に山形へ帰る。淺右衛門から全藩士に報告。
♦慶応四年(1868)05月22日  忠弘は十三歳で和泉守に任じられ従五位下に叙せられる。以降幾度も天皇に拝謁し、拝領の品や酒肴を賜る。
♦慶応四年(1868)06月08日 御願いが通り、金札八千両拝借。その後追々拝借願いを出しているが一々記載されていない。
♦慶応四年(1868)06月29日 山形の国許では、帰って来た者を中心に四班を編成し、仙台藩を始め各藩に対し、藩主が帰城出来ない理由を述べ協力を求めるため出発する。
♦慶応四年(1868)07月17日  天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発する。天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、江戸を東京と改称することを内容とする。東京遷都ノ詔または東京奠都ノ詔とも呼ばれる。
♦慶応四年(1868)08月13日 天皇が東京に行幸されるのに先達って、忠精、忠弘は江戸に行くにあたり暇乞いをするため翌14日参内、15日京都を発ち、9月1日東京に到着。
♦明治元年(1868)09月08日 (新暦10月23日)明治天皇即位のため明治に改元された。
「慶応四年をもって明治元年とする」としているので、法律上はこの年の1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って明治の元号が適用されるが、当年表では原本に従いこれ以前は、慶応四年を採用した。
♦明治元年(1868)10月13日 (新暦11月)天皇が東京城(江戸城から改称)に着かれたので、忠精、忠弘が坂上門外で拝迎する。この後天皇は一度京都に戻る。
♦明治元年(1868)11月23日? 忠精は召されて参内し小御所において天皇に拝謁し天杯(*3)や酒肴を賜った。(丕揚録には日付のみ記載)
♦明治元年(1868)12月13日 広忠、忠精は奥羽列藩同盟に加わり官軍と交戦した君主父子としての責任を問われ、謹慎を命じられる。
♦明治二年(1868)01月12日 忠精は謹慎を免じられる。
♦明治二年(1868)03月 (新暦05月)天皇は再び東京に行幸し、皇城(東京城から改称)入りし、太政官が移された。以後、天皇と政府は京都へ戻ることはなく、事実上の「東京遷都」が果たされた。
                   
 山川水野家は、別稿系圖の如く、初代忠元の叔母於大は家康の生母であることから、外戚としての誇りを持ち、五代忠之、十一代忠邦、十二代忠精は、老中を勤めた家柄としての自負がある。鎮撫軍と入れ替わりのように山形を発ち、江戸開城後は江戸を出立し京都に入り、忠精が所司代であった時以上に朝廷に尽くしている。藩の意向で藩主の帰国を願い出るが許されなかったことや、また度々のお召や賜物などから朝廷からの信頼度が伺え、この混乱期にあり、藩主不在の国許を憂いながらも、弱冠十三歳の藩主補佐役として京に止まらざるを得なかった忠精の苦境を垣間見ることができる。これらの状況から、なぜ藩主父子が上京していたのかという一端が判るであろう。一方、他藩は殆どの藩主が国許におり、前述のように戦死者や病死者を反逆首謀者とし、小藩は謹慎処分に止まっている。


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=ゆうめん。罪を大目にみてゆるすこと。
*3=天皇からいただく杯酒。恩賜のさかずき。


小川水野系圖http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95




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5 コメント

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突然ですが・・・ (mic)
2008-08-20 17:18:29
初めて投稿します。
実は先日、山形へお墓参りへ行ったところ、墓石に「水野臣 山田大衛」と書かれているのを見つけました。水野藩についてもほとんど知識がないので、PCで色々と検索していたところ、こちらに辿り着きました。山田大衛はわたしの祖父の祖父くらいにあたるようですが、詳しい事が解る者がもうおりません。

何やら処分を受けているようですが・・・先手頭、という役職も?です。これから少しずつご先祖について調べてみようかと考えています。奥が深そうですね。
返信する
歓迎>micさん (∞ヘロン)
2008-08-20 18:37:42
 ようこそマイ・ブログへお越しくださいました。
 お盆でご先祖様の墓参をなさいました由、誠に御奇特な事でございます。
その折り、貴家のご先祖様が「水野臣 山田大衛」様と判明し、山形水野藩士であられたとか。
 「何やら処分を受けているようですが」と書かれておられますが、当時の情勢は本ブログのシリーズに記したように、戊辰戦争という不幸な戦いに伴う敗者への処分ということで、水野藩の重職にあった人達が代表してその責をとらされたということです。現在では上役が下役に責任を擦り付けて自身はその罪から遁れるという、誠にもって卑怯な連中が大勢居りますが、昔の人達は潔く罰を受けたのですから、ご子孫の方々は何ら羞じることはありません。

 貴家ご先祖山田大衛様(以下敬称略)について、補足説明します。

記事中の――
「先手頭 山田大衛 役儀御免、馬廻席、謹慎 6月14日」は、
川瀬 同先生作成資料によれば、山田大衛の件について――

「朝裁、反逆者水野三郎右衛門刎首被仰付候ニ付而(て)者、昨年出兵之節政右衛門ハ新庄口、大衛ハ越後口、籐五ハ秋田口、豐太郎ハ福島口、各銃頭として命出張、恐多くも奉抗[後略]」
と書かれています。
 つまり、朝廷の裁きにより、反逆者の家老水野三郎右衛門は打ち首をおおせ付けられたのは、昨年 明治元年(1868)、戊辰戦争で出兵した際、政右衛門は新庄口、大衛は越後口、籐五は秋田口、豐太郎は福島口へ、各々銃撃隊の頭として命を受け出張し、朝廷に対し恐れ多くも反抗した」という意味であり、
その咎により、家老水野三郎右衛門処刑当日の、明治二年(1869)五月二十日、処分が申し渡され、先手組を統率する先手頭であった 山田大衛は、 その役職を罷免され、馬廻席に降格され、6月14日に謹慎を申し渡された。
 山形藩水野家分限帳によると、同氏は慶應元年から御先手頭并(高三百五十石)に任命されています。席次は家老から数えて28人目にあたる重職でありました。
先手組については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E6%89%8B%E9%A0%AD
ご参照下さい。
水野藩における先手組は、戦闘部隊の銃撃隊であったと考えられます。

 これを機会にまた本ブログをお尋ね下さい。



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micさんへ追記 (∞ヘロン)
2008-08-21 03:36:48
 「∞ヘロンの掲示板」の記事で
「最後の山形藩主・水野家の第16代当主 水野忠俊 氏 」
http://9131.teacup.com/heron/bbs/23
を掲載していますのでご参照下さい。
返信する
ありがとうございます。 (mic)
2008-08-21 10:17:32
とても解りやすく解説していただき有り難うございます。
歴史と自分が繋がっていると、実感しました。なんだか不思議な感じがします。銃撃隊ですか・・・穏やかな人生ではなかったのでしょうね。
ご親切に感謝いたします。またじっくり読ませて頂きに来ます。
返信する
水野三郎右衛門元宣140年祭 (∞ヘロン)
2008-08-21 15:18:34
micさん

 拙文が少しはお役に立てたようで嬉しく思います。
本日、偶然にも「水野三郎右衛門元宣」の慰霊祭の詳細が判明しましたので、ブログに投稿しました。念のためお知らせしておきます。

水野三郎右衛門元宣140年祭
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7a1e0cc87e85d1d6a9bebffb9ba6ae5a

それから、旧山形水野藩士縁者の親睦会「香澄倶楽部」がございまして、現在でも会員を募っていると確認しましたので併せてお知らせいたします。
連絡先は記事中に書いた豊烈神社です。

猶猶 もしよろしければ水野氏史研究会にもご加入下さると嬉しく思います。会費等はなく無料です。
http://mizunoclan.exblog.jp/
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