∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その4)

2006-07-09 17:13:20 | C-3 >山川山形水野

                                         山形城(2005.06.11 10:20)



水野三郎右衛門元宣(その4)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

5.庄内討伐の解兵
 山形藩はこの様にして官軍として出兵したのにも拘わらず、一転して賊軍の汚名を蒙らざるを得なったことは以下の理由によるものである。先ずは、仙台、米沢の両藩が主として白石の奥羽各藩集会所(*2)に各藩の重臣を集めて、連署して会津藩(*3)降伏の嘆願書を総督府に差し出したところ、九條総督は事情を察して、これを許し受け入れようとしたが、参議世良修蔵(*4)がこれを退けた。さらにはますます急いで、会津征伐を厳しく取り締まったことから、仙台・米沢両藩は大いに怒り色々と決断を躊躇っていたが、慶応四年(1868)閏四月二十一日の夜、世良参謀が大山参謀に密書を送ろうとすることを耳にし、直に使者を捕らえてその書を奪い、世良等の強暴に憤慨してこれを刺殺した。同二十四日、奥羽各藩の重臣等はまたも白石で集会し、太政官(*5))に提出する建白書(*6)を作り、連署・調印して奥羽各藩の同盟条約を締結した。仙台米沢の二藩は直ちに会津討伐の兵を解いて国に帰り、羽州諸藩をもまたこれに同盟させ、庄内征討の兵を解いたことが要因となった。しかしこの同盟は必ずしも天皇の軍隊である官軍に抵抗するものではなく、専ら薩長の強暴に憤慨したことが、建白書の文面で明らかにされている。
こうして奥羽各藩の態度が一変したことにより、仙台に居た九條総督は盛岡から秋田に入り、新庄に居た澤副総督もまた秋田に入ったことで、山形藩は仙台藩の七番大隊長梁川播摩の率いる大隊と共に、新庄および金山(*7)に出兵し秋田藩の動静をうがい、従うか否かの事実を問いただそうとした。次いで庄内藩と合わせて新庄城を攻落し、更に秋田領に入り、神宮寺(*8)、刈和野(*9)の付近において専ら番兵、もしくは見回兵として配属され、一向に実戦に従事しなかった。

6.奥羽各藩の同盟書
 奥羽各藩の同盟締結の原因は、前記の如くであるが、なお各藩重臣は慶応四年(1868)五月三日、仙台城下の会議所に第二会を開いて、建白書について協議をした。この会議に後れて加盟したのは越後の諸藩で、新発田城主溝口誠之進、村上城主内藤紀伊守、村松城主堀左京亮、三根山城主牧野伊勢守、長岡城主牧野備中守、黒田城主柳澤伊勢守等であり、この同盟は大いに新政府を驚愕させた結果、ついに各藩は主裁者を出して厳罰を受けさせることになり、三郎右衛門もまた山形藩の犠牲者となることを甘んじて受け入れざるを得ない状況となった。
 以下には、
「すなわちこの同盟者は奥羽諸藩が王政維新に対する真の意向を窺い知るにたるものであることから、以下に全文を掲げる。」と書かれ――
  太政官建白書
  同廿五藩条約書
  世良修蔵の密書
の各全文が記載されているが、長文で難解であり、また筆者の力量不足により、失敬ながら割愛した。
太政官建白書、同廿五藩条約書についての説明は、――
 建白書および条約書共に、一読して道理と正義は整然としており、皇室を尊重し新政府に誠心誠意敬服していることは明かであるが、この度のことは、薩長参謀の唯一人の横暴に憤慨したことによるものであり、この状況に対し政府に裁断を仰ぐものである。しかも奥州諸藩は、徒に皇室に抵抗するものとして、賊軍の汚名を蒙ることになったのは、誠に遺憾とせざるを得ないものである。


7.山形藩老の苦衷(苦しく辛い心の内)
 福島において世良総督参謀を斬ったことから、奥州各藩の同盟は確かなものとなったが、山形藩は藩主父子共に国許には不在で、また官軍方の天童に隣接し、大藩には譲歩しないという気風であり、さらには交通の要衡の地であることから、諸藩士の往来は頻繁で、藩老等は応接にいとまがない。しかも時には諸藩から疑惑を持たれることもあり、苦しく辛い心の内は云うまでもない。特に藩の財政は甚だしく困難を極め、すでに官軍として出兵し、さらに各藩に同盟しなければならない状況になったことで、諸藩からは度々出兵を催促されるが、兵器さえも充分ではなく、藩士笹本藤馬を庄内藩に遣わして西洋銃六十挺に付属品一切を添えて借り受けたことさえあった。新庄口、越後口、秋田口、福島口へと一小隊もしくは二小隊ずつ出兵したが、これは単に各大藩の爲に駆使されたに過ぎない。特に藩老が苦心しなければならなかったのは、米沢藩から小田切勇之進が上の山に来て、山形藩は藩主が在藩しないことから到底相談相手にならず、また奥州各藩同盟も次第に破盟藩が出てきているが、山形藩は同盟は確固ではあるが、藩主父子両公が不在で心配であり、藩の行く末に不安があると察したので、米沢藩から養子縁組を勧めるための交渉が長引かないように兵隊六百人を引き連れて来ている。上の山藩も出兵するのかと掛け合った。上の山藩の重役は、山形藩は同盟は確かであり何も心配することはない。しかしながら両公が上京中の間は養子も考えられるが、その適当な人物がいるのかと問うと、小田切は、米沢侯の甥で分家駿河守の嫡子主税様とおっしゃる方が居られる。山形藩で欲しいと願われたら相談は可能であると答えた。それから直ぐに山の上藩中村祐右衛門が度々山形に来て相談をしたが、藩老等は相談をつくした上で、八月十三日、水野三郎右衛門、石原兵衛の両人が上の山藩に赴き、重役等に面会し、さらには二人で米沢藩を訪ね、五六日を費やした後、山形に帰着した。米沢において話合った内容を重役一同に話したが、結局宿老等の意見は藩主が上京中であり、藩主と相談できるようになるまでは、藩老だけで養子縁組をを約束し、上杉主税は取りあえず客分として山形に来ることに決めた。八月二十三日、米沢から小田切勇之進が再び山形にやって来た。水野三郎右衛門は石原兵衛と共に上の山に趣きよく相談した結果、上杉主税は村山郡(*10)鎮撫として近々山形に来ることになっていると聞き、光明寺を滞陣所と定めて座敷の様子などを調べ多少修繕を加えた。次いで藩士吉松善次郎を米沢に遣わしたが、米沢藩の意見はすでに一変し形勢が変わっており、上杉主税は急に山形に立ち寄ることが出来ないということで、米沢藩の養子論は立ち消えとなった。明治二年(1869)五月、三郎右衛門の処刑と共に、藩士等二十余名は、またそれぞれ減禄、蟄居、閉門、謹慎等が申し渡されたが、中には藩老志賀淺右衛門への申し渡しに「淺右衛門が上京の際、東京の御家中でも、纏まりのない衆評の中にこの様な事例があり、万一両殿様の内のお一人を、東京にお迎えしても事は運ばず、御帰郷のない場合は水野式部様を藩主に換えてお誘い致すか」云々と在るのを見ると、米沢藩から養子交渉の申し出がある前に、藩老達が藩主不在に困り切って姑息な策を主張したものであり、米沢藩は密かにこの様子をうかがい知り、養子交渉を持ちだしたのであろうか。さらに米沢藩は大石、大熊、江口の三藩士を山形へ送って寄こし(八日町土屋兵七宅に宿泊)、水野、志賀の両家老へ次の書面を送ったこともある。

 一翰啓呈仕候、追日秋冷彌益候得共御多祥被遊候條奉賀候、
至急御内々御談詞申上儀御座候間
只今罷出候かご来駕被候や何れもご都合之儀一寸御伺申上候
餘は拝眉に奉譲候稽首
九月十日
       大石琢蔵
                      大熊権平
                      江口腹蔵
 水野三郎右衛門様
 志賀淺左右衛門様
    御取次中

<本文要約>
   至急内々にご相談したいことがありますので
   お伺いするか、来ていただくかご都合を少々
   伺います。

 この文面を手に取ると直ぐに、小清水彌作宅で面会すると、郡奉行秋元鐵輔を遣わして面会させ、秋元から両人が聞いた内容では、この度新兵三百人を雇い入れ、その給与の資金がないので、山形城下の者に借金を申し入れたいので口添えを頼みたいと口頭で伝えられたが、秋元はそれは到底出来ないことと即座に返答し退去した。当時は秋田口、越後口、会津口など何れも戦争があり、越後口の官軍は庄内大鳥(*11)へ押し寄せて放火し、村山地方(*10)にも来るとの噂があり、上へ下への混乱の最中に、またこの様な金の相談まで持ち込まれたことで山形藩老達の苦心は推測するに余りあると言える。

(まとめ)
 山形藩は藩主不在の爲、とにかく古い習慣に従って改めず、一時しのぎでぐずぐずと決断をためらうことはやむを得ないことであるが、白石同盟の約束を守り微力ながらも白河口、越後口、秋田口などに出兵し真面目に働きつつあるにも拘わらず、米沢藩が突然兵を率いて来て、恫喝的に十三歳の幼主に養子論を持ち出しながら、初めは勢いがよかったが、結局は立ち消えとなったことは不可解であるのに、自らの藩は、八月十九日、土佐藩の片岡等から降伏の勧誘を受けたことで、官軍に降伏の交渉中であり、他藩に融資を申し込むなど、その真意はどこにあるのか全く理解に苦しむところである。


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=宮城県白石市の白石城。
*3=尾張徳川家二代友光が、二男義行に信濃を分与したが、その後、義行の願い出により岐阜県海津市に転封され高須藩となり尾張徳川家の分家となった。十一代高須藩主松平義建の二男は尾張藩を嗣ぎ徳川慶勝となり、五男が高須藩主一橋茂榮で、七男が“会津藩主松平容保”となり、九男は“桑名藩主松平定敬”と三人ともに養子に望まれ大名となった。この兄弟のことを「高須四兄弟」と称し幕末維新史に名を遺している。
*4=奥羽諸藩から会津藩主松平容保の嘆願書が提出されたが、これを拒否したことで仙台藩士が憤慨し、明治元年閏四月二十日福島の宿屋で暗殺された。反面、最近の調査では世良もまた時代の犠牲者であったという見解も示されている。
*5=明治政府初期の最高官庁。1868年(慶応4)1月設置。
*6=政府に自分達の意見を公的に申し立てた書面。
*7=山形県最上郡金山町(かねやままち)
*8=秋田県大仙市神宮寺
*9=秋田県大仙市刈和野
*10=山形県村山市。
*11=山形県田川郡朝日村大鳥。



山形城下地図 (光明寺) 写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん


米沢市上杉博物館能舞台(2005.06.11 14:57)


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