∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-2 >結城城

2005-07-13 12:16:19 | C-2 >福山結城水野
結城城
   茨城県結城市大字結城1927 (結城小学校) Visit :2005-06-08 12:00

  結城城は、治承年間(1177-1180)に結城朝光が築いたとされるが確証はなく、むしろ南北朝動乱期に築城されたと見られている。
その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して、勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(1591)徳川家康の二男で豊臣秀吉の養子であった秀康を十七代春朝の養子にもらい受け、慶長六年(1601)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。その後、城は取り壊され、百年を経て水野氏が藩主となる。
 
 結城水野家は、徳川家康の生母於大の弟水野忠重の嫡男で、家康の従兄弟にあたる水野勝成を初代とする。勝成は永禄七年(1564)の生まれで、天正十二年(1584)二十歳の時、家臣の富永半兵衛を切って以来、父に勘当され、豊臣秀吉、佐々成昌、小西行長に仕え、忠重の死の時、家康の会津攻めに供奉していた。その後父の家督を相続し、関ヶ原の戦、大阪冬・夏の陣で戦功を上げ勇将として名をはせた。元和元年(1615)七月二十一日、家康から、その功により先祖の地である刈谷三万石から郡山城(奈良県郡山市)へ六万石に加増され転封となった。同五年(1619)八月四日、五十六歳で備後(広島県東部)、備中(岡山県西部)に、加増され十万石余の大名として転封された。勝成は同八年(1622)八月、備後国深津郡野上村常興山(広島県福山市)に新城を築き、城下を福山と名付けた。徳川幕府は、勝成のような有力譜代大名を西国に配し周辺に睨みをきかせたのであろう。
寛永十四年(1637)、島原の乱が起こり、翌年、勝成は七十五歳の高齢にもかかわらず、五千六百の兵を率いて嫡子勝俊、孫勝貞と共に出陣した。慶安四年(1651)、勝成は波乱に富んだ八十八年の生涯を閉じ、福山の賢忠寺(広島県福山市寺町4-24)に祭られ、その後、神として福山城外の徳勝霊社(後に聡敏神社)にまつられた。結城市の聡敏神社(城跡公園西)は、水野氏が結城に新城を築いた時、福山から勧請したものである。

 二代目勝俊は、藩の経営に尽力したが勝成の没後、僅か四年後の明暦元年(1655)、五十八歳で没した。三代の勝貞はその七年後に三十八歳で亡くなり、寛文四年(1664)三歳の勝種が四代藩主となったが、勝種は元禄十年(1697)十月、三十七歳で没し、その子勝岑が僅か一歳にして五代藩主となった。翌年(1698)四月二十八日、福山藩では藩主を将軍に拝謁させるべく江戸に向かわせた。ところが勝岑は旅の途中で病気となり、五月一日に亡くなってしまった。
 跡継ぎの無くなった福山藩十万石の所領と城は幕府に没収されたが、先祖以来の功績があったことや、家康の生母に繋がる家系だったことが幸いし、元禄十一年(1698)九月、幕府は水野嫡流家の存続をはかり、勝成の曾孫勝長に跡を継がせるべく、能登国四軍(石川県)に一万石を与え、水野家を再興させた。しかし、禄高は十分の一となり家臣の大部分は暇を出され、その数は福山だけで二千百二十七人に及んだ。めでたく能登について行けた者たちがやがて結城藩に移ることとなった。
 勝長は、五代将軍綱吉と当時の幕政を握っていた側用人柳沢吉保に仕えており、能登に移って二年後の元禄十三年(1700)十月、結城藩に同一万石で転封された。同年十一月、勝長は、将軍綱吉から柳沢吉保の屋敷に住むよう命を受けるなど、権力の中枢に近いところにあって、家の再興に尽力した。この時、下総国(茨城県)結城郡の内八か村、上総国(千葉県)山辺郡の内二か村、同武射郡(千葉県東金市)の内十一か村が加増され、計一万五千三百石(*1)となった。翌十四年(1701)に下野国(栃木県)芳賀郡、常陸国真壁郡(茨城県筑西市ほか)などで三千石加碌された。さらに同十六年(1703)一月九日には結城郡九か村、下野国芳賀郡、常陸国真壁郡で五千石の加増を受け、合計一万八千石となり、同時に古城跡に新城の建造も認められた。
 
 結城城の再建の大役を命ぜられた、藩主勝長の又従兄弟で家老の水野織部長福は、水野家に伝わる軍学を受け継ぎ、俳諧、和歌、漢詩、狂歌など文学にも造詣の深い人物であった。当初江戸にあった織部は、築城にあたり、城跡の調査、新城の設計、家臣の屋敷割り、城下の町割りなどの任務で結城を訪れた。『結城使行』は、織部が江戸出発前後から帰着、復命までの紀行文を記したものであり、道中の風景や地名などを俳諧、短歌、漢詩で巧みに表現しており、文章は流麗である。
 築城の認可を受けた元禄十六年(1703)一月九日から、十七日目にあたる同二十六日、藩主勝長の勤めが多忙であったことから、藩主に代わって実父勝長が織部に対応し、結城古城図を手渡し、旧本丸を本丸と二の丸に分け、旧二の丸は三の丸と侍屋敷とするよう指示した。これは、旧結城城は幾多の戦いをくぐり抜け、規模も大きくなり実戦的に作られていたが、新城は太平の世の藩庁としての城を築くことにあった。

『結城使行』には、――
 此地の惣形を考見るに三台の地といふも、鉄躰の地といふも、こヽにそなハりて名にしにおへる地形也、本丸のうしろわきに深沼を帯、東南に流水二筋迄みなぎり、高山遠くへだたりて要害といひ、勝地といひ、さながら四神相応せし繁昌の地又たぐひも多からじ。(中略)
 《  縄張や 千代ともむすぶ 城の春  》

[註]
*1=五代将軍綱吉から水野隠岐守勝長に宛てられた一万石の領地目録には、二十一か村の詳細が記載されており、石高の合計は、「都合一万石、外五千三百二十六石三斗五升一合、これは込高(こみだか)也」と書かれている。だがこれを合算すると一万五千余石となるが、これは新領地の村々の年貢率が旧能登藩四郡より低かったので、五千石余を付けて年貢米の額が目減りしないよう配慮したものである。禄高は一万石であり、この調整を「込高」と称している。
 *『結城水野家文書』については、現在茨城県立歴史館(茨城県水戸市緑町2丁目1-15)に寄託されている。


歴代結城藩主
 初代 水野数馬(勝長=かつなが)〔従五位下、隠岐守〕備前福山藩主水野勝成の曾孫
 二代 水野勝政(かつまさ)〔摂津守〕水野勝直の二男
 三代 水野勝庸(かつのぶ)〔従五位下、日向守〕水野勝政の長男
 四代 水野勝前(かつちか)〔従五位下、日向守〕水野勝政の三男
 五代 水野勝起(かつおき)〔従五位下、日向守〕水野勝前の長男
 六代 水野勝剛(かつたね)〔従五位下、日向守〕豊後岡藩主中川久貞の三男
 七代 水野勝愛(かつざね)〔従五位下、日向守〕水野勝剛の三男
 八代 水野勝進(かつゆき)〔従五位下、日向守〕水野勝愛の四男
 九代 水野勝任(かつとう)〔従五位下、日向守〕紀伊和歌山藩家臣水野土佐守の二男
 十代 水野勝知(かつとも)〔従五位下、日向守〕陸奥二本松藩主丹羽長富の八男
十一代 水野勝寛(かつひろ)〔不詳〕 八代水野勝進の子

上記のように、結城水野家は、勝長に始まり十一代続いて明治維新を迎えた。小禄高ながらも、家系から一般には水野氏宗家といわれている。


☆旅硯青鷺日記

  水野氏の租ともいうべき平良兼が、930年頃、現在の千葉県・茨城県を中心に治めていたが、同族同士の争いが絶えず、農民は焼き討ちに遭うなどの苦渋を味わったが、その子孫である山川水野家、そして結城水野家は、尾張の緒川、三河の刈谷を経て、約700年後に再び此の地に戻り、太平の世を結城家の元家臣であった結城十人衆といわれる町方(商人)とともに、町の発展に尽力したというのは、何故か不思議な因縁に思われる。
 城跡は、城跡公園辺りを中心としているが、その直ぐ近くの結城小学校は、当時の城の面影を偲ばせてくれていることから、その土塀の写真を掲載した。

末筆ながら、結城水野家・山川水野家の取材に対し、結城市役所・および教育委員会の方から快く多くの情報提供を頂きましたことを、深く感謝いたします。

小河水野系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

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