D-2>菅原氏松平更稱源氏――『系圖纂要』新版 第7冊上
1.享禄元年(1528)於大(後の伝通院)は、豪族水野下野守右衛門大夫忠政の娘として、尾張国知多郡緒川城に生まれた。忠政は於大が成長すると松平広忠に嫁がせ、翌年於大は広忠の長男竹千代(後徳川家康)を生む。しかし忠政の死後水野宗家を継いだ於大の兄水野下野守信元が、今川方から織田方についたことから、今川方の庇護を受けていた広忠は於大を離縁し、信元の居城三河国刈谷城(愛知県刈谷市)に返された。その後、於大は信元の命により知多郡阿古居城(阿久比町)城主で、菅原道真から数えて二十三代の久松佐渡守俊勝と再婚した。俊勝との間に康元・康俊・貞勝(定勝)の三男と三女をもうけ、後に天下をとった家康は俊勝の先妻の子は別として、前出の三人を実の弟として松平姓を名乗らせ、松平康元は下総関宿二万石の城主、松平康俊は下総多古一万石を領した。
松平貞勝については、関ヶ原の論功行賞に伴い、山内一豊が土佐一国を与えられて、掛川を去ると、家康は貞勝を下総三千石から、三万石に増禄し遠州掛川に移封した。また貞勝は、伏見城代として豊臣の大坂城を監視、大坂の陣後はその功によって、伊勢桑名十四万石の城主となった。貞勝の二男定行の代に伊予松山に移り、九代定国まで伝え明治に至った。
松平貞勝の四男定眞の系譜については不詳であるが、『系圖纂要』によると定眞の二男定之の六男に「一信 水野甚左衛門」の名が見える。なお一信の妹が嫁いだ「水野主膳正忠景」についても未詳である。
2.「一信 水野甚左衛門」については、二代伊勢亀山藩主板倉重冬の家臣として『鈴鹿郡野史』に、それらしき「水野甚左衛門」の名が見える。「一信」と同一人物であるかどうかの確認はとれていないが、年代的に整合性があることから、参考のため記しておく。
同書には、二代重冬晩年と、亀山藩最後の藩主板倉周防守勝澄の代にかけての藩の苦しい財政状況が詳しく書かれている。
『鈴鹿郡野史』(複製版)編集柴田厚二郎 発行名著出版 1973.04 「板倉周防守様 御家老中御被見」の項に、――
寶永四年(1708)正月四日、關駅(関宿)の富豪橋爪市郎兵衛貞利が死去し、亀山城主板倉近江守冬重はその死を惜しみ[慣例の無い]弔状を発給した。
[当藩は橋爪市郎兵衛から借財があり、累積債務が多額に上っていたにもかかわらず、市郎兵衛が亡くなった同年にもまた二代目市郎兵衛から借財している。]
〇寶永四年(1708)]八月三日亀山藩は本年収入の米租三千三百俵を擔保(担保)として關駅[二代目]橋爪市郎兵衛より金壹千五百両の借債を起し、次て(つづいて)十二月二十七日、又同人より[更に]金貮万四千貮百貮拾壹両貮歩銀八匁四分五厘の藩債を起こす、證書署名人野村治右衛門、熊木何右衛門、堀江為右衛門“水野甚左衛門”青木治兵衛、梅戸荘兵衛、裏書家老板倉杢右衛門。[中略]
[重冬の死去に伴い三代板倉重治が襲封し寶永七年(1710)に亀山藩から鳥羽藩に移封されたものの、享保三年(1718)亀山に再び移封され戻った。]
〇享保七年(1722)十月二十七日關駅橋爪市郎兵衛より、金四千九百四拾参両の亀山藩債成立す、証書署名人大橋與左衛門、小野田藤左衛門、伊藤桐右衛門、大須賀傳右衛門、“水野甚左衛門”、野村治右衛門(百五十石)熊木何右衛門(吟味役百三十石)等にして署名人に江戸常府の士多し[後略]――
[二通の証文に重役として「水野甚左衛門」の名が記載されている]
〇延享元年(1744)三月亀山藩主板倉周防守勝澄、備前岡山へ移封を命ぜらる、板倉政治の決算報告、左の如し
四千七百四十四石八升三合 新田開発
金四萬九千九百〇八両 關駅橋爪市郎兵衛ヨリ負債
[当藩は富豪橋爪市郎兵衛に対して、亀山藩から備中松山藩に移封されるまでに、金四萬九千九百〇八両という莫大な借財を返済せずに去ったことがわかる。因みに一両を現在の20万円として計算すると、一商人から何と百億円相当の借金があったことになる。]
3.「水野甚左衛門」については、備前松山藩第三代藩主板倉隠岐守勝従隠岐守が、江戸からはじめて国許松山城に入城した頃の、執務・日常生活の細部を記した公用人クラスの手になる日記の頭書抜きにも、また、その名が見える。――
『岡山県史』第二十六巻 諸藩文書
芳賀家文書「御初入御在城日記之内頭書抜」
明和八年(1771)四月十五日
一 三州長円寺へ近々出立ニ付 御代番 水野甚左衛門
御居間江召候
(朱書)「御月番被仰聞候ヘハ、御取次当番ヘ心得ニ相達ス、御目付中も申達候」
――と記されており、ここにも「水野甚左衛門」の名がみえるものの、前出の「一信 水野甚左衛門」とは年代的に六十年余の開きがあることから、一信の子孫で甚左衛門を継承する者ではなかろうかと推察される。しかし、これ以降の累世の詳細については、残念ながら現在のところ史料は見当たらない。
4.最後に、「一信」が、姓を「松平」ではなく、唯一「水野」甚左衛門と名乗ったのは、この系図からは、高祖父貞勝の母の外姓を名乗ったのではないかとも推測されるが、高祖父から本人一信に到る何れかの妻が水野姓であった可能性もあり、また一信の妹が「水野主膳正忠景」に嫁いでいることから、一信の代になっても尚、「水野家」との浅からぬ因縁があったことが窺われ、これらの解明は今後の課題としていきたい。
[参考資料]
関宿藩
摂津河内のうちより 5万石
京都所司代の前任者の板倉重宗が入り、重郷に嗣ぐが、伊勢亀山へ
初代 板倉重宗(しげむね) 従四位下 周防守 侍従 板倉勝重の長男
二代 板倉重郷(しげさと) 従五位下 阿波守 板倉重宗の長男
三代 板倉重常(しげつね) 従四位下 大和守 侍従 板倉重郷の長男
亀山藩
初代 板倉重常(しげつね) 従五位下 隠岐守 板倉重郷の長男
二代 板倉重冬(しげふゆ) 従五位下 周防守 板倉重大の長男
三代 板倉重治(しげはる) 従五位下 近江守 板倉重冬の長男
鳥羽藩
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
亀山藩(再)
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
二代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
三代 板倉重治(しげはる) 従五位下 近江守 板倉重冬の長男
伊勢志摩藩
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
亀山藩(再々)
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
二代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
備中松山藩
初代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
二代 板倉勝武(かつたけ) 従五位下 美濃守 板倉勝澄の長男
三代 板倉勝従(かつより) 従五位下 隠岐守 板倉勝澄の二男
四代 板倉勝政(かつまさ) 従五位下 周防守 板倉勝澄の七男
五代 板倉勝(かつあき) 従五位下 周防守 板倉勝政の四男
六代 板倉勝職(かつつね) 従五位下 周防守 板倉勝の長男
七代 板倉勝静(かつきよ) 正四位 伊賀守 陸奥白河藩主松平(久松)定永の八男
八代 板倉勝弼(かつすけ) 従五位 板倉勝の弟板倉勝喬の四男
R-4>『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏3/3
1.享禄元年(1528)於大(後の伝通院)は、豪族水野下野守右衛門大夫忠政の娘として、尾張国知多郡緒川城に生まれた。忠政は於大が成長すると松平広忠に嫁がせ、翌年於大は広忠の長男竹千代(後徳川家康)を生む。しかし忠政の死後水野宗家を継いだ於大の兄水野下野守信元が、今川方から織田方についたことから、今川方の庇護を受けていた広忠は於大を離縁し、信元の居城三河国刈谷城(愛知県刈谷市)に返された。その後、於大は信元の命により知多郡阿古居城(阿久比町)城主で、菅原道真から数えて二十三代の久松佐渡守俊勝と再婚した。俊勝との間に康元・康俊・貞勝(定勝)の三男と三女をもうけ、後に天下をとった家康は俊勝の先妻の子は別として、前出の三人を実の弟として松平姓を名乗らせ、松平康元は下総関宿二万石の城主、松平康俊は下総多古一万石を領した。
松平貞勝については、関ヶ原の論功行賞に伴い、山内一豊が土佐一国を与えられて、掛川を去ると、家康は貞勝を下総三千石から、三万石に増禄し遠州掛川に移封した。また貞勝は、伏見城代として豊臣の大坂城を監視、大坂の陣後はその功によって、伊勢桑名十四万石の城主となった。貞勝の二男定行の代に伊予松山に移り、九代定国まで伝え明治に至った。
松平貞勝の四男定眞の系譜については不詳であるが、『系圖纂要』によると定眞の二男定之の六男に「一信 水野甚左衛門」の名が見える。なお一信の妹が嫁いだ「水野主膳正忠景」についても未詳である。
2.「一信 水野甚左衛門」については、二代伊勢亀山藩主板倉重冬の家臣として『鈴鹿郡野史』に、それらしき「水野甚左衛門」の名が見える。「一信」と同一人物であるかどうかの確認はとれていないが、年代的に整合性があることから、参考のため記しておく。
同書には、二代重冬晩年と、亀山藩最後の藩主板倉周防守勝澄の代にかけての藩の苦しい財政状況が詳しく書かれている。
『鈴鹿郡野史』(複製版)編集柴田厚二郎 発行名著出版 1973.04 「板倉周防守様 御家老中御被見」の項に、――
寶永四年(1708)正月四日、關駅(関宿)の富豪橋爪市郎兵衛貞利が死去し、亀山城主板倉近江守冬重はその死を惜しみ[慣例の無い]弔状を発給した。
[当藩は橋爪市郎兵衛から借財があり、累積債務が多額に上っていたにもかかわらず、市郎兵衛が亡くなった同年にもまた二代目市郎兵衛から借財している。]
〇寶永四年(1708)]八月三日亀山藩は本年収入の米租三千三百俵を擔保(担保)として關駅[二代目]橋爪市郎兵衛より金壹千五百両の借債を起し、次て(つづいて)十二月二十七日、又同人より[更に]金貮万四千貮百貮拾壹両貮歩銀八匁四分五厘の藩債を起こす、證書署名人野村治右衛門、熊木何右衛門、堀江為右衛門“水野甚左衛門”青木治兵衛、梅戸荘兵衛、裏書家老板倉杢右衛門。[中略]
[重冬の死去に伴い三代板倉重治が襲封し寶永七年(1710)に亀山藩から鳥羽藩に移封されたものの、享保三年(1718)亀山に再び移封され戻った。]
〇享保七年(1722)十月二十七日關駅橋爪市郎兵衛より、金四千九百四拾参両の亀山藩債成立す、証書署名人大橋與左衛門、小野田藤左衛門、伊藤桐右衛門、大須賀傳右衛門、“水野甚左衛門”、野村治右衛門(百五十石)熊木何右衛門(吟味役百三十石)等にして署名人に江戸常府の士多し[後略]――
[二通の証文に重役として「水野甚左衛門」の名が記載されている]
〇延享元年(1744)三月亀山藩主板倉周防守勝澄、備前岡山へ移封を命ぜらる、板倉政治の決算報告、左の如し
四千七百四十四石八升三合 新田開発
金四萬九千九百〇八両 關駅橋爪市郎兵衛ヨリ負債
[当藩は富豪橋爪市郎兵衛に対して、亀山藩から備中松山藩に移封されるまでに、金四萬九千九百〇八両という莫大な借財を返済せずに去ったことがわかる。因みに一両を現在の20万円として計算すると、一商人から何と百億円相当の借金があったことになる。]
3.「水野甚左衛門」については、備前松山藩第三代藩主板倉隠岐守勝従隠岐守が、江戸からはじめて国許松山城に入城した頃の、執務・日常生活の細部を記した公用人クラスの手になる日記の頭書抜きにも、また、その名が見える。――
『岡山県史』第二十六巻 諸藩文書
芳賀家文書「御初入御在城日記之内頭書抜」
明和八年(1771)四月十五日
一 三州長円寺へ近々出立ニ付 御代番 水野甚左衛門
御居間江召候
(朱書)「御月番被仰聞候ヘハ、御取次当番ヘ心得ニ相達ス、御目付中も申達候」
――と記されており、ここにも「水野甚左衛門」の名がみえるものの、前出の「一信 水野甚左衛門」とは年代的に六十年余の開きがあることから、一信の子孫で甚左衛門を継承する者ではなかろうかと推察される。しかし、これ以降の累世の詳細については、残念ながら現在のところ史料は見当たらない。
4.最後に、「一信」が、姓を「松平」ではなく、唯一「水野」甚左衛門と名乗ったのは、この系図からは、高祖父貞勝の母の外姓を名乗ったのではないかとも推測されるが、高祖父から本人一信に到る何れかの妻が水野姓であった可能性もあり、また一信の妹が「水野主膳正忠景」に嫁いでいることから、一信の代になっても尚、「水野家」との浅からぬ因縁があったことが窺われ、これらの解明は今後の課題としていきたい。
[参考資料]
関宿藩
摂津河内のうちより 5万石
京都所司代の前任者の板倉重宗が入り、重郷に嗣ぐが、伊勢亀山へ
初代 板倉重宗(しげむね) 従四位下 周防守 侍従 板倉勝重の長男
二代 板倉重郷(しげさと) 従五位下 阿波守 板倉重宗の長男
三代 板倉重常(しげつね) 従四位下 大和守 侍従 板倉重郷の長男
亀山藩
初代 板倉重常(しげつね) 従五位下 隠岐守 板倉重郷の長男
二代 板倉重冬(しげふゆ) 従五位下 周防守 板倉重大の長男
三代 板倉重治(しげはる) 従五位下 近江守 板倉重冬の長男
鳥羽藩
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
亀山藩(再)
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
二代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
三代 板倉重治(しげはる) 従五位下 近江守 板倉重冬の長男
伊勢志摩藩
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
亀山藩(再々)
初代 板倉重治(しげはる) 従四位下 近江守 板倉重冬の長男
二代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
備中松山藩
初代 板倉勝澄(かつずみ) 従五位下 周防守 板倉重治の長男
二代 板倉勝武(かつたけ) 従五位下 美濃守 板倉勝澄の長男
三代 板倉勝従(かつより) 従五位下 隠岐守 板倉勝澄の二男
四代 板倉勝政(かつまさ) 従五位下 周防守 板倉勝澄の七男
五代 板倉勝(かつあき) 従五位下 周防守 板倉勝政の四男
六代 板倉勝職(かつつね) 従五位下 周防守 板倉勝の長男
七代 板倉勝静(かつきよ) 正四位 伊賀守 陸奥白河藩主松平(久松)定永の八男
八代 板倉勝弼(かつすけ) 従五位 板倉勝の弟板倉勝喬の四男
R-4>『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏3/3