∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >神守山 楞巌寺

2005-09-06 08:28:23 | C-1 >小河氏系水野



神守山 楞厳寺(りょうごんじ)
 愛知県刈谷市天王町6丁目7 Visit :2005-09-01 13:30


§刈谷水野家の菩提寺(水野信元・忠重の廟所)
 曹洞宗の寺で、山号を神守山と号す。応永二十年(1413)遠州浜松 普済寺(*1)の利山義聡が開き、多くの修行僧が集まり禅の修行道場として盛えた。第七世古堂周鑑のとき刈谷城主水野家の菩提寺となった。徳川家康の生母於大は、周鑑禅師に参禅(*2)し、得度(*3)をうけた。寺宝の「伝通院(*4)画像」は、愛知県指定文化財、「伝通院調度品」「華陽院(*5)画像」「水野忠重画像」は刈谷市指定文化財、「水野家廟所」は刈谷市指定史跡である。
     (当山門前の案内 平成17年2月――刈谷市教育委員会)


 天文二年(1533)、水野忠政(徳川家康の外祖)は、刈谷金ケ小路に刈谷城(亀城)を築き、それまでの居城尾張緒川城には嫡男信元を置き、刈谷城をはじめ大高・西尾などの六城主となった。忠政は、はじめ松平昌安の娘を妻とし、嫡男信元と一女をもうけたが離縁し、大河内元綱の養女で世にもまれな美女といわれた於富の方を後妻とした。於富の方は華陽院と呼ばれ、於大・忠分・忠重らを生んだあと離縁となり、後に岡崎城主松平清康のもとへ嫁がせられた。天文十年(1541)、於大の方は、松平広忠に嫁ぎ二年後の天文十二年(1543)、家康をもうけた。同年忠政が逝去し、信元が六城主を継ぐ。その後、於大の方は、松平広忠に離縁され刈谷に戻り、しばしば当山を詣でたといわれる。境内にある刈谷水野家廟所には、二代刈谷城主水野信元、四代目で信元の弟忠重の墓がある。


[註]
*1=正長元年(1428)、華蔵嘉曇和尚によって開設。当寺は、静岡県浜松市広沢1丁目にあり、遠江における曹洞宗の古刹の一つ。遠江における曹洞宗の拠点で、西遠地方の曹洞宗寺院のほとんどがこの寺の末寺。当初は本能山隋縁寺といい、寺島村(浜松市寺島町)にあったが、その後、現在の場所に移転、広沢山普済寺と山寺号を改める。
*2=座禅して禅を修学すること。特に、ある師の指導の下に禅の修行をすること。参学座禅。問禅。
*3=(とくど)=仏門に入り僧になること。出家すること。
*4=於大の方の戒名。
*5=於大の方の母於富の方の戒名。


☆旅硯青鷺日記
 当山は、極最近、山門以外の本堂を始め寺務所・庫裏・鐘楼・梵鐘・土塀に至るまで改築されおり、まことに荘厳で美しい。山門を入り境内を見渡すと、「おや、どこかで観たような……」と思ったら、そう小河水野家の菩提寺 宇宙山乾坤院と造作が瓜二つである。本堂の左手奥には、やはり墓所があった。その中程に塀で囲まれた廟所が「水野家廟所」のようだ。念のため寺務所に尋ねると、やはり廟所と聞かれた。建物が真新しいだけに、よりひっそりと寂しく見えた。
 写真は、本堂と廟所である。

小河水野系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95





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