∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >霊鷲山 長母寺 [追補版]

2007-06-30 15:10:54 | B-1 >水野太郎左衛門系



●霊鷲山 長母寺
  愛知県名古屋市東区矢田町寺畑2161
Visit :2005-04-18 15:00 Revisit :2007-05-27 11:00

[由緒]
 當山は治承三年(1179)己亥、山田次郎源重忠が開創。その後荒廃していたが、弘長三年(1263)癸亥、山田道圓坊夫妻が母親のために再建し、天台宗から臨済宗に宗派を改め、長母寺と称し無住國師を開山とした。
天和二年(1682)、開山より四百余年を経て衰微していた寺は、尾張二代藩主徳川光友の命により再興され、開創以来八百二十余年の今日に到る古刹である。

当山を発祥の地とする尾張万歳の由来については、正応年間(1288--1293)、住持であった無住國師が、村人に法華経をわかりやすく説いて教えるため漫才を作り、それを弟子の徳若が節を付け、歌えるものとしたものが『尾張萬歳』の起こりとされる。
これが後に 、たまたま大高(名古屋市)や藪(東海市養父)、寺本(知多市八幡)が長母寺の寺領であったことから、知多北部の地域にこの漫才が普及したとされる。この知多半島は、海と丘陵地に挟まれて、農耕に適した土地に恵まれなかったため、農民たちの暮らしは裕福ではなく、そのため尾張万歳は、貧しい農民たちの数少ない娯楽のひとつとして、また農閑期の貴重な収入源となる出稼ぎとして引き継がれてきた。
愛知県知多市のホームページによれば、『尾張萬歳』は、平成8年12月20日、国重要無形民俗文化財に指定されたとあり、これについて詳しく説明しているので一部引用してみる。
 万歳の芸は、扇子を持って祝詞を唱える太夫(たゆう)と、鼓をたたいて合いの手を入れる才蔵(さいぞう)のふたりによって演じられるのが基本であり、芸に秀でた年長者が太夫を務める。ただし、演目によっては、才蔵が2人または4人に増えたり、楽器も三味線や胡弓を加えて華やかな舞台芸となることもある。
その後、江戸時代になると、芸の優れた者の中には、江戸の大名屋敷や武家屋敷へ万歳に行くようになり、新たな訪問先を開拓していった。このような座敷に上がって演じる万歳は、檀那場(だんなば)万歳として、つまりお得意先を中心に回る万歳として定着した。一方、大半の万歳師たちは、方々の家々を訪問し、玄関の土間などで演じて回る門付(かどづけ)万歳の形で行っていた。 漫才は無住國師が法華経をもとに作った法華経万歳が基であるが、その後、家々の宗派に合わせ、この法華経万歳のほかに、六条万歳、御城万歳、神力万歳、地割万歳の四つの万歳が作られ、これら五つの万歳が尾張万歳の基本となった。


●天和三年(1683) 第六代水野太郎左衛門政良作梵鐘 Revisit :2007-05-27 11:00

銘文――<白文>――『張州雑志』第十二巻 第九十四 春日井郡守山村――
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尾 州 春 日 井 郡 山 田 庄 木 賀 崎
霊 鷲 山 長 母 禪 寺 者 無 住 大 圓
國 師 所 創 建 之 徃 昔 殿 樓 巍 々
□1□2井 々 然 風 霜 既 古 寺 門 佛
閣 荒 敗 矣 近 來 剪 蜂 房 為 獅 子
窟 変 荊 棘 為 構 檀 林 殿 堂 門 廡
經 營 之 再 起 宗 風 雲 山 改 觀 兮
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粤 檀 越 手 川 氏 吉 延 者 夙 單 思
於 諸 葛 匍 疊 且 □3 心 千 般 若 法
門 道 □4曰 了 山 自 休 居 士 兮 復
舊 □2百 爾 器 備 而 唯 歎 缺 一 梵
鐘 為 考 妣 妻 女 追 善 新 鑄 蒲 牢
從 動 衆 聴 煩 悩 睡 覺 其 功 徳 不
遑 促 褒 讃 仍 為 鉐 曰
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□5椎 新 鑄    中 虚 外 團
寸 莚 一 撃    常 吼 夜 闌
遐 邇 普 響   宣 教 珊 珊
警 民 啓 □6   十 方 通 貫
霊 山 月 落   豐 厳 霜 寒
由 聞 親 證   □7亦 性 完
非 語 非 黙   眞 觀 假 觀
著 衣 韶 石   □8鉢 徳 山
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發 起 宗 □9  大 衆 執 瞞
我 心 打 着   不 容 他 鼾
群 生 睡 覺   報 國 平 安
  天 和 三 季 癸亥 春 二 月 初 四 日   
      願 主 手 川 氏 了 山 自 休 居 士
      住 持 比 丘 雪 谿 叟 慧 恭 謹 誌
        冶 工    水 野 氏 藤 原 政 良
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[銘文注]
1. 「林」の下に「取」
2. 「矢」偏に「見」旁=「規」の本字
3. 「斤」編に「頁」旁
4. 「禾」偏に「爾」旁
5. 「牛」偏に「建」旁
6. 「耳」編に「貴」旁
7. 「米」の下に「耳」
8. 「昔」偏に「攵」旁
9. 「上」の下に「日」=「旨」の俗字
・『張州雑志』は、欠字三文字、誤字二文字、および鋳造者名を記していない。
・デジタル写真からも文字判読を補った。





水野太郎左衛門家系図:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/42f77dfdd91dfcd69ef3357f3d0bfd06



☆旅硯青鷺日記
 尾張万歳については、筆者の中学時代の昭和三十年代にも、この門付けが、毎年正月にやってきた事が、懐かしく思い出されます。今日でもこの門付けは行われているのかは不明です。
2005年4月18日、當山を訪れたときには、御住持が不在であったことから、水野太郎左衛門政良鋳造の梵鐘をフェンス越しに撮影したものの、離れていたことから梵鐘の銘文は残念ながら判読できなかった。
2007年5月27日、名古屋大学付属図書館において、特別展「王権と社会― 朝廷官人・真継家文書の世界―」が開催が決まり、この展示会で、尾張・三河・美濃に現存する梵鐘・半鐘・雲版などの鋳造物の写真をパネル展示されることとなったことから、同館員の方が長母寺に写真撮影に行かれるとの情報を得て、同日同行させていただき、御住持のご許可を得てようやく梵鐘銘文の撮影が叶いました。今回は、車のフロントガラス用日除けを、レフ板に転用したことから、薄暗い鐘楼の下でも池の間が明るく撮影できました。
撮影後、銘文の判読に時間を要したことと、また体調が思わしくなかったことから、当記事の仕上げが出来ずに今日まで投稿が遅延していました。まだ体調は回復せず、しかも白文の読み下しも出来ていませんが、一応の体裁か整ったので取りあえず投稿することにしました。








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