難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

要約筆記奉仕員養成講習会終了にあたって

2008年09月06日 09時02分51秒 | 要約筆記事業
080827-085112.jpg要約筆記奉仕員養成講習会の終了にあたって、難聴者の立場から、考えた。

講習会の内容が奉仕員講習会のカリキュラムに沿ったものだとすれば、要約筆記が難聴者のコミュニケーション支援の手段の一つであることは学ぶだろう。しかし、聞いた言葉をその場で文字にして書くことの難しさも感じているだろう。
聞こえない人の大変さを理解しても、自分がそれを支えるだけの力を持っていることに自信がないので、終了後の活動に参加する人が少ない。

そうした人たちに終了後も難聴者とのつながりを持ってもらい、要約筆記社への道をあゆんでもらうために、何を話したらよいだろうか。

一つは、難聴者の困難なことに挑戦しているを実感として感じてもらえるような話。もう一つは、難聴者が何を一番に求めているかということを理解してもらう話。最後に、コミュニケーションの成立はどのように出来るかという話をしたい。

難聴者は人と一緒にいても「一人」でいる。テレビを見ていても聞こえない言葉が続けば何か分からなくなってしまい、聞く気持ちが萎えてしまう。高齢者の場合は、子供夫婦や孫に聞き返すのも遠慮してしまう。一緒に見ている家族が笑っても追従笑いしかできない。これは寂しい。コミュニケーションの断絶状態にいつもいる。
所々しか聞こえない、ところどころ聞こえないことがある。これが「孤立」につながること、補聴器で聞いたりしても自分だけの力ではどうしようもないこと、しかし、難聴という障害は理解しにくいために理解を求めるのも難しい。
地域でも職場でも家庭の中でも難聴者は寂しい思いをしながらもみんな負けないで我慢して生きている。

何で、我慢するのか。それは聞こえないのは自分のせいだと思っている人は多い。また、確かに難聴なのは自分だが聞こえの問題を自分だけでは解決できないこともすぐには解決できないことも分かっている人もいる。
そうした時、難聴者は自分が苦しんでいることを理解してくれる人を求める。
いま聞こえなくて毎日が大変だが自分のことを理解している人が同じ会社にいる、同じ地域にいる、家族にいるということが「我慢する」支えになる。
これは、要約筆記が出来る出来ないに関わらず、理解してあげること、理解していることを伝えることは出来る。
要約筆記奉仕員養成講習会を終了したばかりの人がもちろん明日から要約筆記が出来るわけではないが、少なくとも難聴者のいろいろな問題は学ん出いるはずなので、自分という存在が難聴者の支えになることを理解してもらおう。

難聴者が困難を感じているのはコミュニケーションが出来ないことだ。そのコミュニケーションを成立させるにはいろいろな方法がある。静かなところで話をするのもそうだし、ゆっくり話をするのもそうだが、筆談が難聴の程度に関わらず有効だ。確実に伝わるし、書くという行為はけっこう負担だがそれを自分のためにしてくれているという気持ちも伝わる。
難聴者には、書かなくても大丈夫、聞こえますという人もいるがそれでもはなしながら書くということを繰り返していると書いたものを見ることが自分には全部伝わっているという安心感になる。
要約筆記が出来なくても、筆談することで難聴者とコミュニケーションすることが出来るし、気持ちの安定につながる。

要約筆記者になるということは、難聴者にその場の聞こえを文字で書くことにより保障するという非常に難しい仕事なのですぐにはできないこと、しかし
そのことにより難聴者の社会の中で生きる権利、一人の人間としての尊厳が守られることを伝えたい。


ラビット 記




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