難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

手話は言語 難聴から(2)

2011年07月08日 08時47分39秒 | 日記(つぶやき)
手話は言語という時、それまでのろう者と手話の置かれた状況から、手話は独立した立派な言語である、独自の文法があると言う主張が込められている。
近着の手話研究誌にも手話の指さしを解説する記事があり興味深かった。

しかし、手話の言語学的な探求とコミュニケーションにおける手話の利用する意味、社会的な位置づけの検討は次元が違う。違うが裏表の問題ではないか。

難聴者の手話を使う意味、表現の工夫を尊重し、手話を学ぶ市民の気持ちをくみ取らねば、社会に広がらない。
難聴者と健聴者は同じ日本語を母語とするので、手話を介した会話は通じやすい。難聴者にはありがたい。

「音声日本語を話す難聴者の使う手話は言語ではないのか。手話は言語であるとは難聴者はどう受け止めるべきか。」

ラビット 記


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1 コメント

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難聴者はどう受け止めるべきか。 (オガワ)
2011-07-08 21:31:55
身振りと異なり細かい内容を伝達できる体系を持っているのが言語で、個々の難聴者は疑いなく、立派な言語を使用しています。まずそこから出発すべきでは。
日本語と手指日本語、またいわゆる対応手話と日本手話との区別についてはいろんな議論を見てきました。
これらは言語学的な部分で、専門家の研究を待つか、自分で研究しないとなりません。ただ、難聴者をそんなあやふやなところに引っ張り出すことには、怒りに近いものを感じます。アイデンティティのゆらぎを生じるからです。

難聴者を支援する者の態度としては、
難聴者が使用しているものは言語、小川が使っているのはオガワ手話。
肯定的にとらえる必要があると思っています。

難聴者が使用している「手話」は、もしかしたら日本語なのかもしれませんが。
しかし立派に言語の枠に入るはずです。
それでいいのでは。

手話←ーーーーーーーー→日本語
の領域、どこからが手話でどこからが日本語なのか、研究者の線引きでどうにでもなってしまいます。
私たちはいたずらに当事者の知らないところで議論する態度を許さない、そんな姿勢をろう者は持っていたことを、オガワはろう者の仲間から学んできました。難聴者にもそろそろも必要かもしれないですねえ。
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