難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

難聴者等のための手話試論(メモ)

2010年04月29日 21時01分05秒 | エンパワメント
7月に、手話を学んでいる健聴者、その手話講習会に関わるろう者、行政関係者などに、難聴者の手話、コミュニケーションについて、話す機会がある。
どのようなことを話すか、メモしておこう。


難聴者、中途失聴者が手話を学ぶことの意義は何か。

手話を学べば、聞こえなくてもコミュニケーション出来るようになるというのが一般的な理解だろう。

それに対して、「手話の学習を通じて自立する力を身につけること。」というのが最近の東京の難聴者手話講習会関係者、少なくとも難聴者協会の考え方である。

それは、「手話を学ぶことで心のリハビリテーションを図る」と言うことをもっと具体的に表現したことである。

「心の」と言うのは、失聴や聴力の減退によって、周囲とのコミュニケーションが困難になり、寂しい気持ちになったり、孤独感に襲われたり、差別意識すら感じて悩んでいる辛い精神状態の事を表している。
「リハビリテーション」は一般的に機能回復訓練をリハビリテーションと理解されていることから、そうした精神状態から元気な聞こえていた時の状態をとりもどすという意味がある。

「心のリハビリテーション」だけでは不充分というのが私たちの考えである。つまり、寂しさを紛らわせたり手話による会話ができるようになることだけでは、難聴者、中途失聴者の「リハビリテーション」は十分ではないという理解がある。

「リハビリテーション」を「全人間的復権」といったのは上田敏だが、権利の復権というのが福祉関係者の常識になっている。機能の回復ではなく、機能不全や機能喪失によって失われたものを社会的な環境整備、サービスの充実によって補うことが障害を持つ人間の当然の権利として持っているという認識がある。

難聴者等にとって、手話講習会を受講しようとしたきっかけや目的は個々に違うだろうが、「元気になりたい」というのは共通だろう。本人の意識にどのくらいあるのか本人自身にもわからないが「健康な精神状態」「活動的な自分」を求めるのは人間の本能である。

自立することとは何か。
もちろん、自分で聞こえるようになるとか、聞こえるようにふるまうということではない。それは「自己決定」できること。

自己決定するだけなら、別に手話を覚えなくても筆談している人でも自己決定の考えを学べばいいではないかと言われるかもしれない。
それはそのとおりである。しかし、筆談している難聴者が普通に生活し、書物などを通してその考えに至るのは至難である。

手話講習会の意味がここで明確になってくる。
手話講習会は同じような難聴者等が集まって学習する。集団で学習するというのはその構成メンバーの問題を解決する重要な手法で、集団ソーシャルワークという。個人ソーシャルワーク、社会ソーシャルワークと並ぶ方法である。

難聴者等が集団で学ぶことの意義は、第一に自分と同じ難聴者がいることを知ること。
ろう者と違って難聴者は自分の周囲に同じ障害を持つ人に出会うことは稀だ。病院や補聴器店で確かに大勢の難聴者がいるがそれぞれ難聴の治療や補聴器購入に来ているのであり、自分もその一人なので同じ障害を持つ難聴者と意識することは少ない。

第二に、自分のコミュニケーションの状況を客観的に見ることができること。
難聴者は他の人に話しかけたりすることに消極的で会話もすれ違ってしまうがそのことは自分では見えない。しかし、周囲に難聴者がいてお互いに会話している様子が見える。それは自分のコミュニケーションを鏡に映してみているのと同じだ。

第三に、生きた会話によるコミュニケーションの場であること。
本やDVDで学習するのと違って、リアルタイムでコミュニケーションの状況が発生している中で学習するので大いに刺激を受ける。
手話を学ぶときには、実際の生活、日常会話を表現する。
「おはよう」、「ご苦労様」、「おいしい」、「分かった」などだ。
この時に「おはよう」と声を出しながら手話表現する。なぜか?普段の生活で日本語を話しているからだ。

手話を学ぶとき、手話の表現と日本語(音声)の対応を説明を受ける。
「おはよう」というのは「おはよう」[ラベル]と表します。これは枕を取って置き上がる仕草です。この拳が枕です。顔を起こす代わりに拳の方を動かしていますなどと説明する。

第四に、(以下続く)