大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

おくり神の行事

2011年05月16日 | 歴史&文化
藁科川上流の大川地区・日向で、今は行われなくなってしまった行事に「おくり神」という祭事があったことを文献で知りました。佐藤篤太郎さんの文章を拝読すると、随分と賑やかな行事であったようですね。

文中に「ミサキ石」とでてきますが、このミサキは、藁科川流域では清沢地区の杉尾などにも残る、地域外からやってきた者が不慮の死を遂げてその怨みが残った悪霊を指すと考えられます。だから大人たちは、みこしに石を投げる子どもたちを目にしても注意をしなかったのではないでしょうか?

写真は、このおくり神の出発点となった總石造りの祠です。


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『思い出のおくり神』

移り変わる時代の流れと共に、今は消えて、昔語りの一つとなりましたが、今から六~七十年前までは、旧幕府時代から続いた(今は町内)挙げての年中行事の一つであった「おくり神」の事について、記憶を辿ってみました。

これは、悪い疫病の神を、内から追い払って年中の無病息災を願う、信仰からの行事なのでありました。

祭日は、旧暦十二月八日であって、当日が近づき、人民惣代(今は町内会長)さんから、おくり神行事執行の旨、お布令が出ますと、村人たちは老若男女を問わず各戸一人以上は行事に参加する「きまり」がありました。又、集まる場所は、現存する陽明寺山門の前にある、境内の鎮守様をお祀りしてある、總石造りの祠の前でありました。

村人は大勢集まると、みんなで行事の準備に取り掛かり、まず、お供え物の仕度やら、「さあ、おれは、なわや七五三(しめ)、或いは、人形作り用のワラを持って来るよ、あんとあh」「おれは、竹を切って来らあ」又「それじゃあ、おらあ杉の小枝を取って来るに」「私は榊をとってくらあ」とか「俺は祈祷者用の『ゴザ』を持って来る、誰か『カネ』と太鼓をさがしてきて」と云う訳で、一同準備にてんてこまいなのです。

又しめ縄造りやら、なわをなう人、手慣れた器用者は、竹と縄を、それに杉の小枝でおみこしを造り、又、その中に飾る馬上の武者人形をワラで造る等など、なかなかに忙しい。

けれどもみんな一生懸命協力して、準備を整えるのでありました。そして準備完了の頃、祈祷者の御出まし。祈祷者は白紙や色紙で、御幣や「シメ」を作り、神前やおみこしへ飾り付け、献供の品々を供えて、御祈祷が始まる。色々の「手振り」を交えての読経、それが終わるまでの時間は、約40分間ぐらい。

その間、村人は祈祷者に従い、しわぶき一つ聞こえない、御祈りの謹慎状態なのでありました。

そして、それが終わると、さあ、一同は祈祷者を先導に、行列賑やかに、長さ一米五〇糎程の長い柄の御幣を打ち振り乍ら、村内へ繰り出し、用意の鉦や太鼓を「ドンドン・チンチン・ドンチンチン」と威勢良く打ち鳴らし、「オオクレオクレ、おくり神を送れ」と、声張り上げて、叫びながらの行進。中には、一同を励ますかの様に、益々大声の老年中年もありで、賑やかさは高潮するので、子ども達は半ば物珍しさと、面白さの気持ちで、行列に参加し大合唱となるのでありました。

そうした行列は、川上方面から、要所を順次に廻り、川下の方へとおみこし担いでねり進み、村はずれでおみこし治めの読経と共に、川へ流し納めて、行事は終わるのでした。

その時、川下へ下るおみこしに向かって、子ども達は、競争するかの様に、大はしゃぎで石つぶてを投げつけるのでしたが、なぜかそれをたしなめたり、止めだてする人は、一人もありませんでした。
このおみこしの納め場は、藁科川とその支流の篭沢川の合流点から、少し川上(百米位」「ミサキ石」と呼ぶ「ピラミッド」型の大石の所で行った事もあると、覚えて居ります。

その大石は(高さ三米余、廻り十米余)、水流の中央部であった為に、切り取って、今は其の残り株だけであります。

余談でありますが、川の合流点は、昔から浜辺に準じた信仰いまるわる処の様に思われます。

今も尚し風習に残っているのもあります。

蛇足ではありますが、行列で思い出した往時の道路は、今の県道・市道・農道・林道など、そのほかの橋梁は、村中に一米も一つも無く、道と云えば全部、人か馬しか通れない位の凸凹のせまい道で、橋はやはり、人か犬位が通るだけ、丸太や枝を編んで造った、但し水の流れを越すだけのものでありました。

現在は消えた送り神の行事、幼年時代のほのかな記憶を辿り、影を慕う気持ちで拙い筆を運びました。おわり

日向 佐藤篤太郎 一九〇一年生まれ
同所 佐藤とら  一九〇四年生まれ

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「ふる里わら科八社 第二集 」(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)

藤の衣類フンダコ(藤太布)

2011年05月15日 | 歴史&文化
山の縁に紫の花を咲かせる藤の花は、目には嬉しいのですが、からみつかれている木の方としては、まさにがんじがらめで、たまったもんじゃあないでしょう。フンダりけったりというところでしょうが、そこから名前がついた訳では全くありませんが(・・・)、その藤の強いツルを、昔の人は衣服の繊維として利用していて、その藤の衣類をフンダコ(藤太布)といったそうです。

実物はまだ見たことがありませんが、きっと長持ちする丈夫な衣服だったことでしょう。一度新緑の山にあやかって、藤の衣服をまとってみたいものです。

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(二)藤太布の村

藁科川沿いには、羽鳥(服部)や富厚里(服織)といった織物地名が点在する。羽鳥には建穂神社があり、祭神は馬鳴大明神で、養蚕神である。また日向には、福田寺七草祭で、養蚕の豊作を予祝する「駒んず」と呼ぶ芸能を伝えている。養蚕に関わる地名や芸能を伝える藁科川流域は、早くから養蚕が盛んだったことを窺わせる。しかし、次のような伝説がある。
昔、藁科川の水源地の大間に、砂宮太夫という人物がいた。ある日砂宮太夫は海に出かける途中羽鳥を通りかかると、羽鳥は田植えの最中であった。ところが早乙女たちは、宮太夫の着ているタフを見て、その着物はなんだねと馬鹿にするように笑った。宮太夫は、早乙女たちに、秋の稔りは無いぞと言い残して去った。はたして秋になると本当に羽鳥の稲はみな実がないシイナばかりだった。
この伝説の、砂宮太夫が着ていたタフは、藤の繊維で紡いだ糸を織ったもので藤太布(フンダコ)のことである。伝説では羽鳥の早乙女たちは、砂宮太夫の着ていたタフを馬鹿にしたから、早乙女たちは少なくともタフではない織物の着ものを着ていたことになる。
羽鳥は帰化人の秦一族の流れが拓いたところと伝え、古代には絹織物が盛んな所だったと考えられている。この伝説は、上流部の織物と下流水田地帯の織物とが違っていたことを物語り、藁科川の流域一帯がみな養蚕の文化圏ではなかったことを示唆する。
また、大間は藁科川の水源地にあたり、砂宮太夫という名からして、水源地の祭祀を行う人物だったとも考えられ、水源祭祀をしないと秋の稔りがないということもまた示唆している伝説である。清沢も明治から大正時代まで養蚕が盛んだったというが、タフの織物もよくしたところである。山間部の農作業には丈夫なタフが必需品だったのだ。

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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P35)


黄金のルート

2011年05月14日 | 歴史&文化
写真の左下の赤い屋根の見える集落が藁科川上流の「崩野」で、その上の濃い緑をしたこんもりした山の頂きが「智者山(標高1,291m)」です。そして、その稜線を辿って写真右側のぼこぼこした山の峰の一番高い頂上(分かりにくいのですが・・・)が「天狗石山(標高1,361m)」となります。

さて、このどこにでもありそうな山の稜線が、かつて"この峰々を黄金の金が行き交っていた"ということになると、ちょっと見る目が変わりませんか?

この尾根筋はかつて「川根街道」と呼ばれ、お隣の大井川筋・接阻峡で採取された金を駿府にまで運ぶ道筋だったそうです。写真には見えませんが、この崩野という集落の左隣にあった「八草」という集落は、その関所になっていたとか。

今はひっそりとした山の道を、右へ左へとたくさんの人や物が行き来していたのかと思うと、ちょっと不思議な感じがします。

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藁科川と黒俣川が分かれるあたりに、昼居渡の集落がある。ここから尾根筋を登り、八伏ー蛇塚ー洗沢ー富士城ー馬込ー智者山ー天狗石山ー長島ー梅津と、大井川の峡谷にある村々と藁科川を通じて駿府を繋ぐ道を「川根街道」と呼んでいた。この道筋は、梅地や犬間という接阻峡の村々で盛んに採金が行われていた戦国期から江戸時代初期には、物資の輸送路として重要な役割を果たしていた。また、中世には、足利尊氏の命を受けた今川範氏の軍が、足利直義派の佐竹兵庫入道や藁科某、鴇彦五郎などが篭る徳山城を攻略するために軍を進めた山道でもあった。

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「安倍・藁科の神楽 -清沢神楽・梅ヶ島神田神楽・有東木神楽調査報告書ー 」
(清沢神楽保存会・梅ヶ島神田神楽保存会・有東木芸能保存会.2003.P34)


山の端に霧は吸い込まれ

2011年05月13日 | 日記
今朝、雨戸を開けると、辺り一帯にかかっていた川霧の靄が、見る間に山の端へと吸い込まれていくように引いて行き、その隙間からくっきりとした青空が顔を覗かせました。

雨が上がりました。

足元の野花は、水滴を光らせお日様に顔をあげています。
周囲からは、チェーンソーや機械のうなる音。

今日から茶の摘み取り作業の本番がスタートです。



雨の立石橋

2011年05月12日 | 日記
雨が続いています。
藁科川はごうごうと濁り水を流し続け、そぼ濡れた新緑の木々は頭を重そうにもたげています。

写真の橋は藁科川上流の日向にかかる立石橋。
昨晩親しくして頂いている知人が、高校時代の時に大雨が降って、帰り道にこの橋を渡ろうとすると、橋の道の部分にちゃぷちゃぷと水がかかるがちに水かさが増していて、ぞっとしたという思い出話をしてくれました。

改めて橋の高さをみると、お話の大雨の際には随分と増水していたことが改めて分かりました。

雨は嫌いではありません。
女子マラソンの金メダリスト、高橋尚子さんはマラソンの練習で苦しい時に、「今、私は成長の伸びシロにいるんだ」と思うようにした、という記事を読みました。

周りの木々もそんな思いで雨に打たれているかもしれません。


『久造島と夫婦石』

2011年05月11日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の日向を過ぎ、諸子沢・畑色の十字路を、そのまままっすぐ県道60号線を走ると、湯ノ島の手間で左手に下っていく道が分岐しています。

この左の道は「日向林道」といい、下った所が、かつてこの辺り一帯の白髭神社の総本山だった藁科八社や火葬場のあった松ノ平です。そのまま直進して藁科川にかかる丸山橋を渡ると、直に左手に現れるのが能又川(よくまたかわ)です。

渓流釣りの専門書では「藁科川屈指の良渓」と紹介されているそうで、アマゴ釣りのポイントとして釣り人が訪れます。この川の流域に残る字名の由来として、こんな言い伝えが残されていました。


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『久造島と夫婦石』

昔、藁科川上流のゆき又の奥深くに久造という一人の若者が住んでいたそうです。今とは違い、昔はお伊勢参りなど、なかなかできない時代だったそうです。久造は、一生に一度で良いからお伊勢様にお参りしてみたいと心に誓い、せっせと働き旅銭を蓄え始めました。それから何年かたち、やっとの事で旅費がたまり、念願のお伊勢さんに参拝に行く事になり、心弾ませて支度にかかりました。

ところが久造は夫婦の鶏を飼っていました。「さてさて長い旅の間、鶏に飼料(えさ)をくれる人がない、これは困ったことだ。俺の帰ってくる迄には死んでしまう。何か良い考えはないものか」と思いながら、ふと庭の隅にあるたち臼を見て、「ああこれだ。この臼をふせ、中に鶏を入れて、えさをたくさん与えていけば、重くて逃げる心配もなくよかろう」と思い、鶏をそこに入れて行くことにしました。

翌朝、久造は早く起き、まず鶏に「わしたお参りから帰って来るまで元気で待っているんだよ」と、いそいそ出発しました。何しろ四、五十里もある道のりを歩いて行くことです。往復十五、六日もかかったことでしょう。何年かの思いで、久造はその日その日を楽しくお伊勢様にと着きました。荘厳で神々しいお社に念願が叶った喜びも大きく、かしわ手を打って深くお参りしました。其の時、ふとお庭を見ると、きれいな夫婦の鶏が、あちこちと餌をかきたてていました。久造は忘れかけていた自分の家の鶏のことを思い出し、「さぞ苦しくしているだろう」と何もかもそこそこに、一心に家路に急ぎました。

遠い道のりゆえ何日か立ち、やっと帰ってきました。久造は旅の疲れも忘れ急いで立臼を上げ「今帰ったよ、元気でいたか」と声をかけるやいなや、二羽の鶏は羽ばたいて川上の方にと逃げ去ってしまいました。「ああ、どこへ行くのだ」久造は急いで追いかけましたが、夫婦の鶏は大きな石の上にとまり、間もなく息絶えてしまったそうです。

「わしの帰りをさぞ待ったことだろう、悪かった」念願のお伊勢参りは出来たものの鶏を亡くし、悲しみに明け暮れ、その後どこへも行くことなく、この山奥で一生を送ったそうです。今も尚、久造島と呼び名が残っています。鶏のとまった医師はあまりにも夫婦の鶏に似ているので、夫婦石と呼ばれています。

久造島と夫婦石の地名の由来です。

湯ノ島 木おせい

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引用:「ふる里わら科八社 第二集」(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)

天狗岳山頂

2011年05月10日 | 自然&生き物
藁科川上流の諸子沢から登った一本杉峠には、嘉永7年(1855年/江戸時代末期)作の道標が建っています。そこにはしっかりした達筆な文字で四つの面に、それぞれ「左・中・右」と三方向の行く先が記されていますが、諸子沢方面からみた面には「左おおま、中よこさわ、右こしごえ」と刻まれていました。

この道標を頼って、右の道を進むと、しばらくは急斜を直登します。25,000分の1の地図では、道は次第に腰越方面に向かって山腹を東側へとトラバースしていくように表記されていますが、その道は明瞭ではなく、山中の道しるべにそって進むと、平坦な稜線部に出ました。そのまま人工林の木立の中をまっすぐ歩くと、ひっそりと隠れたように「天狗岳」の看板がありました。一本杉峠から約30分、残念ながら、眺望はほとんどききません。

地図では1,026mとなっていますが、看板には1,010mと記されていました。このまま南へ向かって平坦な稜線を1.5キロぐらい歩くと、樫ノ木林道の切り通しのところに出るようです。

この周辺には天狗岳の他に、藁科川を挟んで西の向かい側に天狗石岳と“天狗”が名前につく山が続いてあります。不動尊もいくつか残ることから、修験者の山だった名残でしょうか。

新茶を頂きました

2011年05月09日 | 料理・食べ物
お茶摘みのシーズンが始まり、早速新茶を頂いてしまいました。

頂戴したのは、いずれも藁科川上流・大川地区でお茶を生産されている山水園の内野清己さんと、はたいろ製茶の牧野力雄さん。

お二人とも、全国品評会で入賞されること数々で、まさに藁科川流域を代表する、・・・いえいえ静岡を代表する、・・・ということは日本(いや世界!)を代表するお茶を栽培されていらっしゃいます。

ぬるめのお湯で、早速味わわせて頂くと、ここからは味オンチとしてはなかなか表現できないところなのですが、ぬるめのお茶が優しく舌にさっと乗り込んできて、やがて浸透していく、生野菜をポリっと噛んだようなさわやかな味です。

驚いたのが、舌に味が浸透する最後の部分で、さぁっと味が変わって、若い葉そのままの味が通り抜けて行ったような感じがしたことです。その瞬間、野外のライトグリーンの明るい茶畑がパアッと眼前に広がったように感じました。

生産者の方のお顔や、風景が見えるような、とてもおいしいお茶を頂きました。


風の鳴る峠

2011年05月08日 | 歴史&文化
かつてたくさんの人が、ここを目指し、ここで休み、ここで手をあわせ、ここを急ぎ、ここを横目に駆けくだって行ったに違いありません。

藁科川上流の大川地区・諸子沢から、お隣り安倍川筋玉川地区・横沢へ抜ける峠「一本杉」に行ってみました。

諸子沢地区の一番奥・大道島集落の道が切れる堰堤で車を置き、諸子沢川にかかる木橋を左岸に渡ってスタート。杉やヒノキの人工林の中を、途中源頼朝が、わが身の吉凶をうらないため切りつけたという謂われのある頼朝石や、ゴロリと斜面に転がった大きな岩、いくつかの小さな沢を渡渉しながら歩くこと約1時間。うなるような強い風が吹き込む峠の木立の中に、巨大な一本杉が現れました。樹齢200~300年ほどあるのでしょうか、枝を大きく張り出した杉の根元には、長年の風雨に耐えて目鼻がおちのっぺらぼうになったものと、首がとれたお地蔵さまが二体。また、杉の成長にすっかり幹に抱きかかえこまれ、持ち上がってしまったて大正8(1919)年作の山神社の石碑などが祀ってありました。

行き交う旅人の昔の姿を想像しながら、昼食をとる。その後は、横沢側へ200mほど下ってみたり、往復45分程度のピストンで、標高1.023mの天狗岳にも登ってみながら、いろいろな山道をまた歩くことができればと思いました。

鯉のぼり

2011年05月07日 | 日記
先日、娘達が移動中の車の中で、鯉のぼりを数えるという遊びを始めました。どちらが早く3つの鯉のぼりを見つけられるか、競うのだそうです。あまり最近は大きな鯉のぼりを庭先に立てるという風習は流行らないのかもしれませんが、それでも車窓に、大きな鯉のぼりが風に泳ぐ様を見かけると嬉しいものです。

子どもの日は過ぎてしまいましたが、藁科川上流の大川地区・日向の「あまご処」という釣り堀では、店先や篭沢川越しにたくさんの鯉のぼりがかかり勇壮です。
またいつか、この鯉のぼりたちが表しているように、多くの子どもたちが山里に戻ってきてくれることを願ってやみません。

藤盛り

2011年05月06日 | 地名の由来
藁科川にそってカーブを右や左にハンドルを切ると、必ずと言ってよいほど、山の斜面から点々と巻き付いて下がるヤマフジの花が目に止まります。

木の末をたわめて藤の下りけり 子規

この写真は、藁科川上流・県道60号線をあがってくる途中にある藤の花に取り囲まれた黒田渕の祠です。
中には、弘法大師を祀った石碑と、観世音菩薩の石仏、そして黒田渕お稲荷さんの三体が仲良く並んで祀られています。

この祠のもとにある黒田渕は、かつて黒田というおまわりさんが、この場所を通過中にあやまって自転車でこの渕に転落し、亡くなってしまったことに名前の由来があるそうです。

渕のうえ藤に抱えられたる祠かな 葉茶



八草神明社の跡

2011年05月05日 | 歴史&文化
藁科川上流の廃村、八草を再訪しました。

地図には社のマークがあるのですが、以前訪れた時には確認できなかった八草神社を探すため、行き止まった道に車を止めて、右手の尾根部に回り込む。すると20~30メートル登った地点に、真新しい八草の名家である高橋家の墓碑がありました。その周辺には、崩れた墓碑が散乱していました。

尾根部の人工林の中をそのまま登って、見当をつけていた台地状になった周辺を探してみましたが見当たらず、しばらく左手の方に続く尾根を歩いて行って鞍部のようになった地点で、足元に石段の跡を発見。
明らかに周囲の杉・桧の木立とはことなり、雷にでもうたれたのか、腐食した木々に取り囲まれた高台に、四角に並んだ礎石を見つけることができました。

多分、ここが八草神社の跡なのでしょう。

かつては参道を登り、人が集い、神楽が奉納され、地域の人々が手を合わせた場所。私たちの来訪を歓迎するかのように、さーっと雲間が切れ、光が指しこんだのが印象的でした。


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『八草神明社』

いにしえのこと、神社の裏山に杉の大木があって女神がいた。また、その向こう側の峰の中腹には池があって、ここには男体の竜神がいた。ある時、農家の女がこの池でタヤの汚物を洗った。竜神はこれに怒って女神と共に立ち去った。それからは池が枯れて山地となってしまった。今もここを池の段といっているが、ここの地形はやや窪んでいて大雨があると、水が一杯になる。また、大杉は山頂より二、三町(約二二○~三三○㍍)下った所にあって、夕日に照らされたその影は三十余町(約三・三㌔)も隔たった楢尾に達したという。

老杉の所在地は、今の崩野地内に属していて通称を女杉という。老杉は女神の去った後、おのずと倒れてしまったが、神木であるので人々は恐れて伐採する者もなく、その一部を氏神の社殿の用材に使ったのみである。

なお、志太郡東川根村智者山の大野神社の前に立つ観音は、この神木を用いて行基が彫ったものである。この大野神社は、往古には大野郷大野神社と称して大化三年(六四七)丙未の年三月に祭られた。祭神は猿田彦大神であった。社地は元は大野が岡にあったが、中古に、社地の北の方角に十余町(約一.一㌔)隔たった智者山神社の社地が神慮にかなったとの夢の告げと、毎夜、大野が岡からここへ火の玉が通ったと云うので現在の場所に移したのだと言う。

ある時、賊軍が乱入していたるところの人家を焼き、貨物を掠奪し崩野を過ぎ、八草に入ろうとした。村民は防ぐ力がないので、山林に逃げ隠れた。高橋家の祖先某は焼かれるよりは自ら焼く方が良いと障子を積んで火をつけたが燃え移らない。火種もなくなったので氏神の社殿に詣でて、賊軍の防御を一心に祈念し、大樹によじのぼって情勢をうかがった。その時、賊は荒らしに荒らして八草に押し入ろうとした時であったが、突然、神殿が振動し、異様な響きが起こり、向かいの山の峰の方でも山が崩れるような大声が上がった。賊軍はびっくりしてあわてふためき、食器を土の中に埋めてどこかへ逃げ失せた。高橋某は安心して樹を降り神殿を見ると、神殿の扉が開いていた。食器を隠した所を、とう椀ぼつと言い、中古、ここから異様な椀を掘り出したことがあったという。こうした次第で、氏子はますます尊崇の念厚く、年々祭事を怠らないという。(美和村誌)

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「藁科物語 第4号~藁科の史話と伝説~」(静岡市藁科図書館.平成12年)

梢高く

2011年05月03日 | 自然&生き物
山が笑う新緑の山腹に、凛として立つ桐の花を見つけ、分け入りました。藁科川中流の中藁科地区・富沢に車を止めて、木の元を目指して歩くと、新芽が出たての茶畑に入り込み、周りの若い柿の葉とあいまって眩しいくらい。体が緑に溶け込んでしまう程の風景の中で、梢高くに咲いた紫の花は、一層気高く感じられました。

田植えが始まりました

2011年05月02日 | 日記
藁科川流域はお茶どころ。田植えと言えば、6月上旬ごろと思っていましたが、お茶の収穫シーズンと重なるこの地域では、ゴールデンウィークに入り、既にあちこちの田んぼで田植え作業が始まっています。今年は例年より気候が冷涼だったため1週間から10日ほど、お茶もずれ込む予定で、少し地域全体にも話題にもどことなく緊張感を感じます。

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・・・安倍川・藁科川流域は古くからの茶の生産地であり、製茶業は流域に暮らす人々にとって最も重要な産業である。よって日向における一年の生産生業暦でも製茶業が中心となる。茶は五月の一番茶から七月の二番茶、さらに家によっては三番茶まで摘み取っていた(現在は一番茶のみという家が多い)。摘み取りの時期をずらすことはできないので、茶の作業の前後に他の農作業を組み込むという形で仕事の段どりが決められる。たとえば「一番茶の前に苗代を作る、種を撒く」「一番茶を終えてから田の草を採る」といった具合である。田植えも一番茶の前に植えるか、その後かでハヤウエ(早植え)、オソウエ(遅植え)と云い分けられていた。

「日向の七草祭り」静岡市教育委員会.平成18年.p173

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