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八草神明社の跡

2011年05月05日 | 歴史&文化
藁科川上流の廃村、八草を再訪しました。

地図には社のマークがあるのですが、以前訪れた時には確認できなかった八草神社を探すため、行き止まった道に車を止めて、右手の尾根部に回り込む。すると20~30メートル登った地点に、真新しい八草の名家である高橋家の墓碑がありました。その周辺には、崩れた墓碑が散乱していました。

尾根部の人工林の中をそのまま登って、見当をつけていた台地状になった周辺を探してみましたが見当たらず、しばらく左手の方に続く尾根を歩いて行って鞍部のようになった地点で、足元に石段の跡を発見。
明らかに周囲の杉・桧の木立とはことなり、雷にでもうたれたのか、腐食した木々に取り囲まれた高台に、四角に並んだ礎石を見つけることができました。

多分、ここが八草神社の跡なのでしょう。

かつては参道を登り、人が集い、神楽が奉納され、地域の人々が手を合わせた場所。私たちの来訪を歓迎するかのように、さーっと雲間が切れ、光が指しこんだのが印象的でした。


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『八草神明社』

いにしえのこと、神社の裏山に杉の大木があって女神がいた。また、その向こう側の峰の中腹には池があって、ここには男体の竜神がいた。ある時、農家の女がこの池でタヤの汚物を洗った。竜神はこれに怒って女神と共に立ち去った。それからは池が枯れて山地となってしまった。今もここを池の段といっているが、ここの地形はやや窪んでいて大雨があると、水が一杯になる。また、大杉は山頂より二、三町(約二二○~三三○㍍)下った所にあって、夕日に照らされたその影は三十余町(約三・三㌔)も隔たった楢尾に達したという。

老杉の所在地は、今の崩野地内に属していて通称を女杉という。老杉は女神の去った後、おのずと倒れてしまったが、神木であるので人々は恐れて伐採する者もなく、その一部を氏神の社殿の用材に使ったのみである。

なお、志太郡東川根村智者山の大野神社の前に立つ観音は、この神木を用いて行基が彫ったものである。この大野神社は、往古には大野郷大野神社と称して大化三年(六四七)丙未の年三月に祭られた。祭神は猿田彦大神であった。社地は元は大野が岡にあったが、中古に、社地の北の方角に十余町(約一.一㌔)隔たった智者山神社の社地が神慮にかなったとの夢の告げと、毎夜、大野が岡からここへ火の玉が通ったと云うので現在の場所に移したのだと言う。

ある時、賊軍が乱入していたるところの人家を焼き、貨物を掠奪し崩野を過ぎ、八草に入ろうとした。村民は防ぐ力がないので、山林に逃げ隠れた。高橋家の祖先某は焼かれるよりは自ら焼く方が良いと障子を積んで火をつけたが燃え移らない。火種もなくなったので氏神の社殿に詣でて、賊軍の防御を一心に祈念し、大樹によじのぼって情勢をうかがった。その時、賊は荒らしに荒らして八草に押し入ろうとした時であったが、突然、神殿が振動し、異様な響きが起こり、向かいの山の峰の方でも山が崩れるような大声が上がった。賊軍はびっくりしてあわてふためき、食器を土の中に埋めてどこかへ逃げ失せた。高橋某は安心して樹を降り神殿を見ると、神殿の扉が開いていた。食器を隠した所を、とう椀ぼつと言い、中古、ここから異様な椀を掘り出したことがあったという。こうした次第で、氏子はますます尊崇の念厚く、年々祭事を怠らないという。(美和村誌)

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「藁科物語 第4号~藁科の史話と伝説~」(静岡市藁科図書館.平成12年)


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