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一点の灯・崩野の地誌

2010年11月15日 | 集落の地誌
谷をはさんだ向こうの山の中腹に、白い大きな建物が見える。

「あそこまで毎日この谷を、降りては登って降りては登って通っていたんだよ」

道を尋ねた崩野の人が、かつての楢尾小学校の校舎を遠く指指しながら教えてくれた。

「ここでは、ありがとうを“おおきに”ってまだいう人もいるんだよ」
目の前に広がる山並みを眺めながら、言葉の由来や集落の暮らしのこと、今は少年の家になった施設の利用法など丁寧に教えてくれた。帰りには、“もっていけ”と大きなシカの角を頂く。

「夜になると、この辺り真っ暗なるんだけど、明かりをともして待っててくれるんだ、とあそこの人は」

と、これも決して近いとは言えない、小さな谷をひとつ挟んだ登り尾の民家を指差す。
真っ暗な山道を抜け、ポッと灯る明かりにどんなにホッとすることだろう。
厳しい山里暮らしの中だからこそ、お互いのことが思いやれる、小さな心遣いが崩野には残っていた。


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「崩野(くずれの)」

藁科川支流・崩野川の右岸斜面にあり、お茶や林業を生業としている。山間高地にあるため、崩野川対岸の楢尾集落が見渡せる。地内の農家の民家の赤い屋根が、緑の山々と溶け合い美しい風情が楽しめる。
曹洞宗宝光寺境内の観音堂(本尊は千手観音坐像)は、近年まで茅葺の屋根で、藁科地域に現存する数少ない古建築として貴重である。また地内の「月小屋」(生理中の女性が住む小屋)は改造されているが現存している。

[中世]
「崩野宝光寺境内は往古土岐山城守の居城せし所なりといひ、里人此処を土岐殿屋敷といふ」(静岡県安倍郡誌)とあって、南北朝には徳山城と関わる土岐一族の者が居住したと考えられている(静岡県の中世城館跡)。
遺構その他は不明であるが、智者山や千頭に至る中継地点として築かれたと想像される。

[近世]崩野村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高24石余、「元禄郷帳」95石余、「天保郷帳」96石余、「旧高旧領」95石余。「駿河記」によれば、家数32.寺社は曹洞宗宝光寺、白髭社ほか3社。
明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年に静岡県に所属。明治7年に宝光寺境内に洗心舎を開き地域の教育を開始したが、同11年対岸の楢尾小学校海禅寺境内に移転、同13年に楢尾小学校となる(静岡市立小中学校沿革の概要)。明治22年、大川村の大字となる。

[近代]崩野
明治22年~現在の大字名。はじめ大川村、昭和44年からは静岡市の大字。明治24年の戸数32・人口211.静岡市内でも有数な過疎地で人口が激減している。
崩野はかつて隣接した八草(平成6年戸数1・人口2)と一町内を形成している。
平成5年楢尾小学校が閉校したため、崩野地内の小学校は大川小学校に移籍された。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

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