大好き!藁科川

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上から目線

2010年10月08日 | 言い伝え&伝承
藁科川流域の川筋を遡ると、「どうしてこんなところに人の暮らしがありえるのだろうか」と思うところに人家が点在していて、驚かされることがあります。

もちろん、そのような山上の急峻なところで生活が営まれるようなったのには、様々な経緯があったと考えられますが、私が、この藁科川上流域に住み始めて学んだ視点の一つに、“人や文化は必ずしも川下から川上に這い上がってくるばかりではない”ということがあります。

今までは、まず下流の扇状地に田畑がひらけ、多くの人が住むようになり、その結果、川筋を人や物や情報がのぼってきた(或いは逃げ込んできた)と、どこか単純に考えてきたところがありました。

けれども、それだけではありません。

藁科川上流の各地を訪れたり、文献などを読んでみると、必ずしもそうではなくって、道はかつては山の尾根部に発達し、そこに往来が生まれて家が立ち、人や物や文化が川上から川下に向かって降りてきた、あるいはそこに川下とは別の起源を持つものとしてとどまってきた、という視点はとても新鮮なものでした。

これは、上流域に暮らし始めてみなければ、実感として分からなかったことです。

このような川上で営まれる生活や文化は、変化や刺激の大きい下流域の華々しいものであったり、ダイナミックに移り変わる大きな歴史ではないかもしれないけれど、ささやかながら脈々と主に人々の心を通じて受け継がれてきたぬくもりやタフさ、地層のようにたまってきた厚みのようなものをそこに感じます。

まだ、とても感覚的な感想にすぎませんが、下から目線だけではなく、上から目線・横から目線を持てたことは、私の大きな収穫です。

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『天狗石山の由来』

静岡市崩野の西に向かって登りつめると、天狗石峠がある。昔むかし、いまからずーと昔のこと、今の天狗石山は、千三百六十六米、三河の国・今の愛知県から、駿河の国・静岡県の山奥を通って甲斐の国・山梨県へと尾根づたいに通じる只一つの街道でした。三河からは塩や魚を、甲斐の国へ、また甲斐の国からは、絹の織物などを、三河方面へと運ぶ商人達で賑やかでした。しかし、雨の季節ともなると、この天狗石山の所はぬかるんで、今でもこの近所を、ぬた平、舟久保などと言う地名が残っている街道一番の難所とされておりました。「こりゃーこまった、もんだんべ」「どうしたら、よかんべ」「うまい方法は、ないもんかのー」と出会う人ごとに、こんな話しを交わし合いました。けれども、一向にうまい智恵が浮かびません。

と、其の頃、山の一番高いところ立っている大きな松の木に天狗が住みついて、時々そこを通る商人達を、おどろかせては、酒や魚などを取り上げては、困らせると云う噂が流れ、ますます恐ろしい場所とされていました。そして、いつの間にか夏が過ぎ、秋も過ぎて、寒いさむい冬がやってきて、天狗石山にも真白に雪が降りました。そして春の訪れと共に、その雪も溶け、また道のぬかるむ季節となりました。

そしてある日のこと、魚をいっぱい背負った三河の年老いた商人が、丁度そのところにさしかかり、泥にはまって困っていると、松の木の上から天狗が降りてきました。さー大変。商人は背負っていた魚を投げ出して逃げようとするのですが、泥が足に吸いついてどうしようもありません。もがけばもがくほど泥に足をとられるばかり、「おた・・・命ばかりはお助けください、魚は全部差し上げます」。天狗はその商人を見て大きな声で笑いました「ワッハッハッ・・・・、魚も欲しいが、お前らが大変苦労しているようだ。日頃困らせている恩返しとして、いってはなんだが、わしに良い考えがある、任せておくがいい」と行ってしまった。商人はさっそく家に帰り町の人達に、このことを話しました。

そしてその晩は、まんまるいおぼろ月が山の上を照らしていました。そして、その夜更け、山の方から「ドンドン、ピーヒャラ、ドンドンピーヒャラ」と太鼓や笛の音が、はるか崩野や楢尾のさとまで聞こえたとか云う。さて夜が明けてみるとびっくり。いつものぬかるみの道は、きれいにいっぱい川石が敷き詰められていました。それは天狗が神通力を使って、笛や太鼓で一晩のうちに、大井川から石を運んで敷いたものだったのです。それからと云うもの、そのおかげで、どんなに雨が降ろうとも、ぬかるんだりすることもなくなりました。しかしそれ以来、天狗の姿を見かけた者はいないとか。それから、この山を、天狗石山と名づけたそうです。

『藁科物語第4号~藁科の史話と伝説~』静岡市立藁科図書館.平成12年~

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