畑俊六元陸軍大臣の日米戦争の回顧
(続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌 みすず書房 1983年3月刊 p539-541)
畑俊六は昭和14年8月から15年12月まで、陸軍大将の第36代阿部信行内閣と、海軍大将の米内光政内閣での陸軍大臣です。
彼は現役時代からこまめに日記を記しており、それが伊藤隆、照沼康孝両氏の編纂で現代史資料として出版されています。 |
畑 俊六 (はた しゅんろく) 明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日) 会津藩の武士の出身、日本の陸軍軍人。 陸軍内の派閥に属していなかったが、昭和天皇の信任厚く、陸軍大臣を2度務めた。 |
|
(昭和25年6月18日 巣鴨監獄にて)
この大戦に負けた原因は多々あるといえども、畢竟国力にて負けたのである。
日清、日露戦争では、戦争も短期であり、総力戦といっても軍需工業、経済力といっても固より大なる素因をなすも規模が小さかった。
又我相手の清国もロシアでも成程兵器は我方より優秀であったにせよ、そう大きな経済力がなく、又補給の点より云っても彼等よりも我方が寧ろ優位にあり、且制海権を保有しておったのであるから、軍隊その者の精神力が大に物をいって勝利を得たのである。
しかし今回の対米戦争に於ては、工業力と云い制海権と云い何一つ優位にあるものなく、且補給は米国の優勢で有力な海軍力、航空兵力に制圧されて全くその機能を失い、太平洋上にばらまかれた兵力は総兵力に於ては優勢なりとも、個々に分断されて全くその力を失い、遂に各個に撃破されたのである。
精神力に於ては日露戦争に比べれば国民全般の道徳力が著しく低下し、今回の戦争に比べようもないが、それでも個人の勇気は決して米軍に比して劣るものとは考えられない。
戦犯として巣鴨に幽閉されて朝夕米軍将士に接する機会があり、勿論巣鴨監獄に勤務する米軍は他の部隊に比して一等低位にあるものとは考えられるも、その能力、勤務振りを見て、私には精神力、即ち軍紀風紀の点及訓練の点より見て我将士が彼に劣るものとは考えられない。
日本軍将士の志気も我国の伝統より見て所謂斬込隊、特攻隊等の事実より見て、決して勇気地を払ってなしとは考えられないが、このような惨敗を見たのは全く組織の力が数倍米軍、否米国に比べて劣って居ったと断定せざるを得ない。
米国がその富よりして金にあかして組織した国家総力に比べて、我国が日中戦争に於ていい加減に低下した国家総力を以て戦ったから敗けるのも誠に当然というべきである。
結局貧乏国はいかに勇気があり意地を張っても、到底金持国には勝てないのが理の当然である。
我国が米国の総力を低く判断したのは、
米国に関する研究(あらゆる方面よりして)、ひいては諜報の不十分に帰因すべきもので、開戦前米国の経済断交にあい窒息し、又国民の声が開戦を主張したのに引きずられて、日中戦争でいい加減弱っていた国家の力を、無理に引きたたして開戦に引きずったことは、今にして考へれば誠に無理であったといわなければならない。
日本が当時隠忍自重すれば、米国の海軍力は益々増大し、遂に自滅する外ないとする当時の海軍側の判断も一応理窟はあるが、たとえ米国より圧迫せられて逐次ジリ貧に陥るとしても、一か八かやって元も子もなくするに比べれば、まだまだ今日のような結果にならなかったであろうと思う。
日中戦争だけ続けていて、油だけは何とかして工面し(米国と戦争をしないのならば在中国航空兵力だけであるから、油も何とかなったことであろうと思う)、小ジンマリとやって行ったなら、その内には国際情勢も変化して、又何とか局面打開の法があったように思う。
かえすがえすも遺憾千万で、所謂”敵を知り己を知る、百戦危うからず”の金言を守らなかったからである。
企画院あたりの計画も杜撰(ずさん)極まるもので、米国と戦うという前提の下に我国にのみ都合よくデッチ上げて、我方戦力を判定した処に根本的に誤りがある。
又海軍は陸軍が中国大陸に於て、満洲事変から日中戦争と独り舞台に活躍するのに嫉妬もあり、功名争いもあり、昭和十数年以来、陸軍に対抗して莫大な予算をとり、尨大なる艦隊を作り、大和、武蔵という六万トンもある途方もない軍艦を作り、シコタマ油を貯蔵し、何か一仕事してたまらない処に、たまたま日米交渉決裂が起り遂に日米の大戦争となった。
この大艦隊を惜気もなく潰滅させて、戦後戦犯となると総てを陸軍に押し付けて涼しい顔をしているとは、誠に以て怪しからん次第である。
東京裁判で陸軍のものが六名も極刑となったのに海軍は一人もないとは誠に妙なことといわねばならない。
敵を知ることをおろそかにして戦を初めた処に、緒戦の成功により有頂天となり、遂に刀を鞘に納めることを知らず、戦が初まってからも陸、海軍互に尚また功を争い作戦がテンヤワンヤとなり、遂に大敗に導てしまった。
よい潮時に刀を納めるとしても米国が承知するまいというけれど、我より相当の犠牲を払って米国の面子をたて和を講じたならば、米国でも戦争を止めたいのであるから承知しないものでもなかったろう。
日露戦争でも適当な時に刀を納めた。
当時は何といっても政治家がいたが、この戦争では政治家がいなかった。
又下剋上の風が強かった為に若いものに引きづられた。
私などにもその責任はあるが、何としても残念なことをしたものだ。
これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。
これも身から出た錆とあきらめなければならない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます