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維新で揺れるなか、なぜ出兵

2021-01-22 18:23:15 | 日記
維新で揺れるなか、なぜ出兵
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牡丹郷の入り口を示す門の上部には、日本軍に抵抗するパイワン族の姿がかたどられている=台湾屏東県牡丹郷で、片倉佳史氏撮影

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「台湾出兵」をめぐる台湾、日本の研究者の話にパイワン族の住民らが熱心に耳を傾けた

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◇西郷隆盛(さいごう・たかもり)

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◇西郷従道(さいごう・つぐみち)

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◇大久保利通(おおくぼ・としみち)(1830~78年)薩摩藩(現在の鹿児島県)出身で、明治維新の中心的指導者。「悲劇の英雄」である西郷隆盛に対し、大久保は「冷徹な権力者」と見られ、人気がなかった。(写真は西郷隆盛、西郷従道も含め、国立国会図書館提供)

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◇李鴻章(リー・ホンチャン、り・こうしょう)(1823~1901年)清朝末期の政治家。工業の振興を進める「洋務運動」の主導者でもあった。外交では妥協することが多く、国内の反対派からは「軟弱外交」と呼ばれていた。

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◇高宗(コ・ジョン)(1852~1919年)12歳で朝鮮王朝第26代国王に即位。父・大院君とは逆に開化政策を実施。西洋文明を受け入れようとし、宮殿にも早くから電気を導入した。政務が夕方以降など夜型だったからとの説もある。

 明治維新は、二つの顔をもつ。一つは、産業や人材を育て、中央集権の国家をつくっていく国内改革。もう一つは、のちの軍国主義につながる海外出兵。前者は、やがて中国や朝鮮も学ぶことになるが、後者は東アジアをかきまわすことになった。

 国内改革を始めたばかりですぐに海外侵略へとかじを切ったのはなぜだろう。

 その答えを探しに、台湾へと飛んだ。近代日本にとって最初の海外派兵は、朝鮮半島でも中国大陸でもなく、「征台の役」と当時呼ばれた台湾出兵だったからだ。

 6月4日、台湾南部の牡丹郷(出兵当時は牡丹社)は南国のまぶしい陽光の中にあった。ここに1874(明治7)年5月、日本軍が攻め込んだ。維新の英雄、西郷隆盛(さいごう・たかもり)の弟で陸軍中将の西郷従道(さいごう・つぐみち)が率いる3600人だ。

 ちょうど、その台湾出兵を振り返るシンポジウムが開かれていた。主催は地元の役場で、100人余りの出席者には、カラフルな民俗衣装をまとった先住民のパイワン族が目立つ。祖先がかかわった戦いの真相を知りたいと集まってきたのだった。

 パイワン族の李金水(リー・チンショイ)さん(87)は、祖父が戦った時のことを聞いて育った。「山の上から鉄砲で日本軍を攻撃したそうです。弾が切れてしばらくしたら、倒れていたはずの日本兵が立ちあがったのであわてて逃げた。そんな話でした」

 この戦いは日本ではほとんど忘れられているが、台湾ではどうなのだろうか。

 やはりパイワン族で小学校の先生をしている杜詩韻(トゥー・シーユン)さん(33)は大学時代、古老たちの聞き取り調査をしたことがある。「詳しく知っている人はいませんでした。いても口を閉ざすばかりで……」

 台湾には1949年、中国共産党との内戦に敗れた国民党が逃れてきた。その政権のもとで先住民族の歴史は闇に葬(ほうむ)られた。民主化が進んだいま、やっと歴史に光を当てようとする機運が高まってきたという。

 それにしても日本軍はなぜ台湾へ。発端は、その3年前にさかのぼる。

 

■宮古島の役人ら殺害 「征伐」名目に出兵

 琉球(今の沖縄県)の宮古島の役人ら69人が乗った船が、悪天候で台湾に流れついた。そのうち54人がパイワン族に殺された。「もてなしたのに逃げたから、敵と思った」。地元にはそう伝わっている。

 だが、日本政府はそうは考えなかった。殺した者たちをこらしめ、あわよくばそこの土地を日本のものにしてしまおう。そんな思惑が、出兵につながった。

 政府内では反対論が少なくなかった。実力者の一人、木戸孝允(きど・たかよし)は抗議して、参議という政策決定メンバーを辞めた。

 いま考えても、いかにも無謀な出兵に見える。戦闘での日本側の死者は12人。しかし、マラリアなどで500人以上が病死した。事前の調査が不十分だったことや軍医と薬が不足したためという。相手を降伏させたとはいえ、現地軍の幹部が「目もあてられぬ有り様」と手紙に書くほどだった。

 何より、台湾は中国(当時は清国)の領土だ。そこに軍を出せば、清が黙っていないだろう。20年早く日清戦争が起きたかもしれなかった。

 それでも出兵に踏み切ったのはなぜか。

 この疑問を追い続けてきた大阪市立大名誉教授の毛利敏彦(もうり・としひこ)さんは、当時の最高実力者、大久保利通(おおくぼ・としみち)に目を向ける。

 大久保は出兵の前年、「征韓論」をめぐる政変で実権をにぎった。だが大誤算があった、と毛利さんは見る。同じ鹿児島出身の盟友で、人望豊かな西郷隆盛が大久保と対立して参議をやめ、郷里に帰ってしまったことだ。

 人気のない政権がやることは今も昔も変わらない。手っ取り早いのは内政より外政だ。そのとき、すでに動きだしていた台湾出兵が目の前にあった。「大久保は既成事実にひきずられて出兵を追認したようにいわれてきたが、終始一貫して出兵に積極的だった」というのが毛利さんの説だ。

 一方、出されたばかりの徴兵令に対し、兵役をいやがる農民たちが、激しい反対一揆を起こしていたことも見逃せない。徴兵が必要だという現実を見せるために政府が対外戦争へと傾いたとみる研究者もいる。

 農民だけではない。征韓論の政変に怒った高知県の士族は、大久保とともに政府を牛耳る岩倉具視(いわくら・ともみ)を襲う事件を起こした。不満を外にそらさないと政権が危ない。いよいよそんな状況になってきた。

 しかも、不平士族の中で最強を誇る鹿児島の薩摩閥は「征台」に熱心だった。薩摩は江戸時代初めから琉球を支配し、その島民の殺害事件はひとごとではなかった。実際、西郷隆盛のもとにいた300人ほどが台湾出兵に加わっている。

 だが、琉球は清にも使節を送り、日中の「両属」の関係を続けてきた。これまた清との対立点にならないはずがなかった。

 

■償金払った清 戦争の「種」まかれる

 中国の天津社会科学院で日本研究所長をつとめた呂万和(リュイ・ワンホー)さんは言う。「とても冒険的な軍事行動だった。それを大久保はよくわかっていたと思います」

 大久保は北京に乗り込み、清との交渉にのぞんだ。経過を「大久保利通日記」などで見ると、難航した様子がよくわかる。

 「万国公法(国際法)に照らせば、出兵地に清の統治は及んでいない」「いや、清国流のやり方で治めている」。法律顧問のフランス人、ボアソナードの知恵を借り、国際法を使って迫る大久保に、清は「日清修好条規を守らないのか」と反論した。

 日清修好条規というのは、その前年に発効したばかりの条約だ。欧米と不平等条約を結ばざるをえなかった日本と清にとって初めての対等条約で、互いの国土を侵さないことを約束していた。

 結局、現地のイギリス公使の調停で、清が50万両(テール)を払い、日本の出兵を「民をまもる義挙」と認めるかわりに、日本は撤兵した。「清政府は軍事行動は鈍重で、外交も軟弱だった。大久保は交渉で失敗を勝利に変え、名誉を挽回(ばんかい)した」と呂万和さん。

 清には、日本に裏切られたという思いが強かったろう。日本を味方にすれば、欧米と対抗するうえで助けになる。そう考えて日清修好条規を進めた実力者、李鴻章(リー・ホンチャン、り・こうしょう)はこう言うようになった。

 「欧米はいくら強くてもはるか遠くにあるが、日本は戸口でわれわれをうかがっている。中国永遠の大患だ」

 このあと、清は日本を仮想敵国のようにみなして軍備の充実を急ぐ。毛利さんの言葉を借りれば、「ここに日清戦争の種がまかれた」ことになる。

 清にとっては、琉球人を日本の「民」と認めたことが最大の失敗だった。日本政府は翌年、清への朝貢を廃止する命令を琉球に出し、その4年後には沖縄県に変える。完全に日本の一部にしたのである。

 「長く中国と宗属関係を保ってきた琉球が華夷秩序から離れた。中華体制が崩壊していく第一歩という意味が大きい」。そう語るのは、沖縄大の又吉盛清(またよし・せいきよ)教授だ。

 当時の中国でも、朝貢国が総崩れになっていく危機感を抱いた人はいた。日清修好条規にもとづいて清から来た初代日本公使の何如璋(ホー・ルーチャン)は、こう本国に書き送っている。

 「琉球が滅べば、朝鮮に及ぶだろう」

 

■次は朝鮮 砲台を軍艦で挑発

 それは現実になりつつあった。その歴史の現場を求めて、ソウルに向かった。

 仁川(インチョン)国際空港は永宗島(ヨンジョンド)にある。1875年9月、この島が日本軍に奇襲され、住民30人余りが殺された。隣の江華島(カンファド)にあった砲台を日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が挑発し、砲撃戦になったのがきっかけだ。

 この江華島事件(韓国では雲揚号事件)を理由に、日本は朝鮮に日朝修好条規という不平等条約を結ばせ、開国させた。かつて日本がアメリカのペリー艦隊にやられたのと似たことをやったのだった。

 江華島も当時とは様変わりした。雲揚を攻撃した砲台跡の「草芝鎮(チョジジン)」は、見晴らしのいい展望台のようで、観光バスやマイカーがひっきりなしに入ってくる。文化観光解説士の朴成玉(パク・ソンオク)さんは「ここは韓国が近代と出会った場所です」と説明しつつ、「いまはソウルに近い観光地ですね」。

 江華島事件で近年、ひとつの発見があった。これまで知られていた雲揚の艦長報告書より、もっと早く書かれた艦長報告書が防衛研究所図書館にあったのだ。

 雲揚は水の補給を目的に近づき、国旗を掲げていたが砲撃された。これがこれまでの報告書に沿った日本側の主張だった。だが、新たに見つかった報告書では水の話はまったくなかった。

 新史料に目を向ける研究者の一人、李泰鎮(イ・テジン)・ソウル大教授に会いにいった。

 「これまでの報告書は、事実関係を知りたがったイギリス公使に会う前日に書き換えたものです。翌日にはフランス公使にも見せている。朝鮮は国際法も知らない野蛮な国だというイメージを与え、英仏を味方につけたかったのでしょう。条約交渉を有利に進めるための工作です」

 当時の日本政府には、ボアソナードだけでなく、フランス系アメリカ人のル・ジャンドルのように、台湾出兵の時に「ゆくゆくは日本が台湾を領有したらいい」などと吹き込む外国人顧問もいた。

 李教授は、先のような江華島事件と条約の定説に疑問を持っている。「鎖国していた朝鮮を日本が開国し、恩恵を与えたというのは、のちに韓国併合を強行した日本側の主張ではないか」というのだ。

 江華島事件の2年前、22歳になった朝鮮国王の高宗(コ・ジョン)が、直接政治をすることを宣言した。国際対応がうまくないと生き残れない、開国は避けられない。高宗は、そんな開化思想を持っていた。

 そう指摘し、李教授は続ける。「高宗は開化には日本の助けが必要と考え、条約締結にとても積極的だった。朝鮮に開国の意思があり、双方の合意でできたのが江華島条約(日朝修好条規)です」

 その後の対立はともかく、条約を結ぶときは合意があったという趣旨だ。

 条約には「朝鮮は自主の国で、日本と平等の権利を持つ」とあった。清の宗主権の否定と解釈でき、のちに日清戦争(中国では甲午(こうご)中日戦争)の開戦の口実にされる。この戦争については、次回の特集で。

(隈元信一、西正之、佐藤和雄)

キーワード:明治維新
 江戸幕府とそれぞれの藩が治めていた政治体制を壊し、新しい中央集権国家が様々な改革を進めたことを言う。廃藩置県や、欧米を手本にした徴兵制度、殖産興業策が導入されたほか、教育制度や税制も抜本的に変え、近代的な国家づくりが進んだ。
 こうした改革は周辺国にも刺激を与えた。例えば中国(当時は清国)では、日清戦争(中国名・甲午中日戦争)後、康有為(カンユーウェイ)らが明治維新にならって政府機構の改革や人材登用を進めた。この改革は103日でつぶされたので「百日維新」と呼ばれている。
キーワード:征韓論
 朝鮮に派兵し征服する、あるいは政治体制の変革を迫ろうという主張のこと。幕末や明治初期に政府内外で論じられた。明治新政府になってからは、朝鮮側は日本からの外交文書が幕府時代の形式と異なっていることを理由に国交を拒絶。さらに1873年5月、朝鮮が、釜山(プサン)にあった日本側の滞在用施設の門の前に日本を侮辱した書を掲示したという報告が伝わり、参議の板垣退助(いたがき・たいすけ)が閣議で、居留民保護を名目に派兵を主張。一方、西郷隆盛は、派兵に反対し、自分を大使として派遣するよう求めた。
 板垣らも賛成し、いったん西郷の派遣がきまったが、天皇に決定を報告した岩倉具視(いわくら・ともみ)が派遣を認めないよう求めたため、閣議で正式決定しながらも派遣が中止されるという異常事態となった。

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