浜矩子「『経済安全保障』によって経済の円と安全保障の円が交わってしまう」
経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
* * *
5月11日に日本の「経済安全保障推進法」が成立した。「経済安全保障」とは一体何だろう。
様々な定義があちこちから提示されている。だが、何とも判然としない。
「経済安全保障」は「経済の」安全保障なのか。「経済による」安全保障なのか。上記の「経済安全保障推進法」は、その正式名称が「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律」である。
この名称からすれば、「経済安全保障」は明らかに「経済による安全保障」だ。これで本当にいいのか。
安全保障は基本的に軍事外交上の概念だ。
このような概念のために経済を手段化していいのか。筆者には強い違和感がある。
経済の円と安全保障の円が重なる部分が経済安全保障領域なら、そこには何があるのだろう。何かがあっていいものだろうか。
第2次世界大戦が終結した時点で、国々は、二度と再び、経済取引と経済関係の世界に戦略性を持ち込まないことを誓ったはずである。
領土拡大のために経済同盟を締結する。天然資源確保のために経済協定を取り交わす。市場の囲い込みのために経済連携関係を形成する。
こうしたやり方が排他的経済ブロックの出現につながり、この展開が武力衝突をもたらす緊張関係の温床となる。この道には決して再び踏み込まない。そう決意したはずである。
それなのに今、戦略的観点から経済を手段化する方向に動いていいのか。
「相互依存の武器化」などという何とも陰惨で物騒な言葉まで、飛び出すようになっている。相手が我が国からの物資の供給に依存しているなら、そのことを恫喝(どうかつ)材料にして、相手から譲歩をもぎ取る。
それが「相互依存の武器化」なのだという。なんとも悍(おぞ)ましい話だ。
「経済安全保障」という言葉を我々の会話の中から追放したい。
つくづくそう思う。経済活動は人間の営みだ。
経済活動は人間を幸せに出来なければならない。
その状態を保つために全力を傾ける。
そのことを「経済安全保障」というなら、まだいい。
それでも、経済を軍事用語と結びつけることには抵抗がある。
経済の円と安全保障の円は、やはり交わってはいけないのだと思う。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2022年8月1日号
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます