日中戦争後に日本陸軍将兵が受けた意外な対応蒋介石は報復しないと表明、武装保持を命じた
広中 一成 : 近現代史研究者
青天の霹靂だった終戦の知らせ
第3師団の将兵は、終戦をどのように受け止めたのだろうか。
8月16日、歩兵第6聯隊速射砲中隊は、以前第11軍司令部のあった岳州にいた。
同隊所属の木股喜代治郎によると、この2日前より飛来する敵機から攻撃を受けなくなり、守備をしている日本兵に聞くと戦争が終わったという。
16日早朝、木股ら兵員は洞庭湖を見下ろす丘の上で、聯隊本部に行った中隊幹部の帰りを待っていた。
そのとき、「桂林、柳州の飛行場は既に敵の手中に在り、昼夜を問わず米軍機の来襲は執拗に繰り返えされ、我々の夜行軍と言えども沿道住民の米軍協力に依り決して安全ではなかった。それなのに早朝から飛来する敵機に警戒もせず、丸坊主の草原の丘に集合する事は出来ない筈なのにと思えば、矢張り戦いは終ったのかと思うと、今迄張りつめていた気持ちが一度に抜けてしまい、生い茂る夏草の上に腰を下ろした」(「無条件降伏」、『歩兵第6聯隊速射砲中隊戦史』所収)。
木股は、終戦の知らせを聞くことなく、米軍機の動きの変化から戦争が終わったことを感じ取っていたのである。
まもなく、中隊幹部が戻り、木股ら中隊将兵を整列させ、中隊長の合図のもと、日本の方角に向かって最敬礼をし、終戦を迎えた。
8月15日、歩兵第68聯隊は、長江下流に面する江西省九江に到達する。
この日、同隊のある兵が九江城内に入ると、出迎えた日本居留民の婦人会の様子がおかしいことに気づく。
まもなく、道端で出会った聯隊の将校から日本が降伏したことを知らされたのだ。
兵は、「『馬鹿なことあるものか、敵のデマ放送だろう』と言い返したものの、全身の力が抜けていくような気がしたり、複雑な気持ちが入りまじって、呆然と立ちどまってしまった」(「終戦と復員」、『歩68五中隊戦史』所収)。
日本の勝利を信じて、長く中国戦線で戦ってきた彼らにとって、終戦の知らせはまさに青天の霹靂であったのだ。
第3師団通信隊の小木曽鋼蔵は、8月15日ごろ、大家店という集落に着いた。夜に仮眠を取っていると、小木曽は日本が降伏したという声を耳にし、目を覚ます。
彼ははじめ、それがデマではないかと疑ったが、「私たちは、日本が負けたことをどうして知ったか定かではない。昨夜の機関車が指令伝達のため走ったとか、大家店の警備兵が敵の飛行機が撒いたビラを拾ったとか、いずれも日本が負けたという結論ばかりだった。途端に今まで張り詰めていた気持ちが一ペンに萎み、一瞬、皆の声が跡絶える。
しばらくして、『これで内地へ帰れるぞ』と、私が口を切ると、みんなが思い思いのことを話しだす。ある者は、もう内地に帰ったような口振りで話し一同を笑わす。が一方では、中国軍がそんなに簡単に帰すだろうか、と心配する者もいた」(「終戦前後」、『第3師団通信隊誌』所収)。
反転作戦の途中であった小木曽らにとっても、日本降伏の知らせは寝耳に水のことであったろう。
しかし、終戦が事実であることを知ると、彼の周りに一気に安堵感が広がった。
その一方で、兵の中には中国軍に不信感を持ち、すぐに帰国できるか疑問を抱く者もいた。
中国軍が日本軍将兵を捕らえなかった理由
ところで、第3師団将兵が終戦を知った頃、ソ満国境では、満州に侵攻してきたソ連軍が日本軍を武装解除し、帰国させると騙して、彼らを鉄道でシベリアへ送った(シベリア抑留)。
これと同じく、中国本土でも戦いに勝利した中国軍が日本軍将兵を捕らえて武装解除し、身柄を拘束するなどの措置を採ることも可能であったはずである。
なぜ、中国本土ではそのようなことが起きていなかったのか。
8月15日、蒋介石は重慶で「全国軍民および世界人士に告げる書」を発表した(『蒋介石全伝』)。
この中で、彼は抗戦勝利を宣言するとともに、次のように述べて、日本側に報復しないことを表明したのだ。
「私たちは特に報復をしようと考えてはおらず、また、敵国の無辜の人々に屈辱を加えようともしない。私たちはただ彼らが日本軍国主義の愚かな行為と抑圧を受けていることに同情を表し、彼ら自身に誤りと罪を打破させるのである。もし、私たちが暴行でもって敵のこれまでの暴行に応えるのであれば、敵はこれまでの誤りと優越感で屈辱的に対応するであろう。互いに恨みを恨みで報い合うのは、永遠に止めなければならない」
そして蒋介石は岡村寧次総司令官に対し、今後日本軍は連合国中国戦区陸軍総司令の何応欽の指示に従い、しばらくの間、武装と装備を保持し、所在地の秩序と交通を維持するよう命じたのである。なぜ蒋介石は日本軍をすぐに武装解除しなかったのか。それは日本軍をしばらく留めておくことで、すでに強大な勢力となっていた八路軍(共産党軍)の動きを抑えるためだった。
ちなみに、蒋介石と何応欽を含む蒋の側近の幹部たちは、その多くが若い頃日本に留学し、陸軍士官学校や各地の聯隊で訓練を受けた経験を持っていた。
これが縁で、彼らは敵として戦っていた岡村総司令官をはじめとする日本陸軍の将校らと実は親しかったのである。
これにまつわるひとつのエピソードがある。
終戦後まもない8月21日、支那派遣軍総参謀副長を務めていた今井武夫少将は、中国との停戦協定の予備会談に臨むため、芷江に向かった(芷江会談)。
このとき会場には、陸軍士官学校の入校試験で今井の面接を受けた中国側将校がおり、会談に際し、陸士時代の教官でもある今井に失礼がないよう、上下の立場のない丸テーブルで話し合いを開く準備をしたという(今井貞夫「『幻の日中和平工作』を執筆して」、『中国21』Vol.31所収)。
このように、現地日中両軍トップ同士の親しい関係が、中国本土の日本軍が平和裡に終戦を迎えられた要因のひとつであったといえよう。
岡村総司令官が5項目を中国側に申し入れ
さまざまな思いの中、終戦という事実を受け入れた第3師団将兵は、その後どのようにして復員したか。
9月1日、岡村総司令官は、中国側に5項目からなる「停戦協定に関する事前稟議事項」を申し入れた(『昭和20年の支那派遣軍<2>』)。その5項目とは、およそ次のとおりである。
②遅くとも本年中に中国からの撤兵を完了したい。その場合の輸送船舶の常時使用にも配慮してほしい
③補給品は現在日本軍が保有しているものは、そのまま使い、不足した場合は中国側から補給を受けたい
④最後まで日本軍の統率組織を活用し、中国側の要求は、すべて日本側の責任で処理する
⑤日本居留民は日本軍が同行保護し、優先的に帰国させたい
一方で、岡村は、派遣軍各部隊に対し、復員のため、塘沽、青島、連雲(連雲港)、上海、南京、九江、漢口、汕頭、広州、九龍、雷州などに集まり、人員整理や検疫など復員に向けた準備を整えるよう命じた。
すでに、第3師団は隷下各部隊に軍旗と重要書類の処分をしたうえで、鎮江へ集結するよう命じていた。
鎮江は滬寧線(上海―南京)沿線で長江に面していて、復員をするには都合のよい場所であった。
また、この地は、かつて第3師団が第2次上海事変後に駐留したことのある馴染み深いところでもある。
9月6日、すべての部隊が鎮江に到着すると、国民革命軍の監視下に置かれ、復員まで同地の集中営(強制収容所)で抑留されることとなる。
彼らは集中営でどのように過ごしたか。騎兵第3聯隊の場合を例にまとめる(『騎兵第3聯隊史』)。
彼らが収容されたのは、鎮江西郊外の丘の上に建つ、かつて華中蚕糸公司が使用していた建物であった。2階建てのレンガ造りで、1階には聯隊本部、聯隊長室、霊安室(英霊奉安室)、医務室、入浴場、2階には第2中隊が入り、敷地内の平屋建ては第1中隊や機関銃小隊が使い、そのほかにも、炊事場、糧秣倉庫、製パン工場、理髪室などが設けられた。建物の北側にクリークが流れており、その水を飲用水とした。
まず彼らが着手したのが、食料の確保である。鎮江近くの長江沿いにあった兵站倉庫に食料があり、そこからおよそ2年分の食料を手にすることができた。このほかに、集中営周辺に自生していた野菜を収穫したり、食用の豚を飼育したりして、栄養の不足を補ったのである。
衛生管理は、伝染病の発生に特に注意し、飲用水が汚染されないよう、クリークの管理を徹底した。
しかし、それでも聯隊内でアメーバ赤痢のような症状を訴える患者が発生してしまった。
戦争が終わってから日が浅く、食料が充分にあったとしても、彼らにはまだ病に耐えるだけの栄養は行き届いていなかったのだ。
10月になると、聯隊将兵は全員、中国軍によって武装解除されるとともに、道路補修の労役に動員された。1回の作業は、期間が約1週間から長くて約1カ月、将校か下士官の指揮のもと、およそ150人からなる作業隊を組織していく。
労役の合間には、将兵らが復員後、民主化された日本に適応できるよう、聯隊本部で民主主義教育が施された。この教育が聯隊本部の自発的なものであったのか、連合国の指導によるものであったのかは不明である。
また、各部隊事務室では、復員に伴う書類の作成が行われた。このとき、すでにあった書類に記されていた「支那」という文字が「中華民国」に書き改められる。
戦前より、日本人は「支那」ということばを差別的に扱って中国を侮蔑していた。
戦争が終わり、日本が戦前の軍国主義から戦後の民主主義の社会へと生まれ変わる中で、対立の温床となったことばによる差別や偏見は捨て去る必要があったのである。
気持ちを奮い立たせるために開かれた演芸会と運動会
いつ復員できるかわからない中で、集中営での抑留生活で沈滞した将兵の気持ちを奮い立たせるために開かれた行事が、演芸会と運動会であった。
演芸会は各中隊総出で歌謡曲漫才やコント、時代劇などを披露した。運動会では、中隊同士の対抗戦で、俵担ぎ競争、走り高跳び、走り幅跳び、300メートルリレー、角力(相撲)などが催される。
将兵らは、本番に向けて余暇の時間に練習を重ねた。このときが彼らにとって、抑留生活の虚しさを忘れさせてくれる瞬間でもあった。
抑留生活開始からおよそ5カ月たった1946年2月9日、騎兵第3聯隊は、復員のため、鎮江集中営から鉄道で上海へ移動する。すでに上海は、復員船を待つ多くの日本兵でごった返していた。結局、騎兵第3聯隊は、そこから約1カ月間、上海日華紡績宿舎で待機し、3月5日、呉淞港から復員船に乗り、上海を後にする。
第3師団のそのほかの部隊も続々と復員し、5月23日、辰巳栄一師団長以下575人が博多港に到着したことをもって、上海呉淞上陸から始まった9年9カ月に及ぶ第3師団の日中戦争はここに幕を閉じた。
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