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日本と世界

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龍谷大学教授・李相哲(61)(11) 運命を変えた電話、決死の日本渡航

2021-12-09 14:19:57 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(11) 運命を変えた電話、決死の日本渡航

2021/5/5 10:00長戸 雅子
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話の肖像画反応新聞記者時代


《米国の大学教授との旅を通して、自由への思いが一層強まっていた1986年の冬。1本の電話が勤務先の新聞社にかかってきた》
活字を組む工場で新聞のゲラをチェックしていたら横にあった電話がリーンとなりました。たどたどしい中国語で、「自分は残留孤児2世だ」と名乗る男性からでした。「残留孤児だった母と一緒に日本に渡ったが、今ハルビンに来ている。日本と中国の間でビジネスをしたいけれど、中国語に自信がないので日本語のできる人を探している」と言うのです。
独学でしたが、日本語を少し勉強していたので私がお手伝いすることにしました。日本とのつながりが何かできればという思いももちろんありました。
残留孤児2世の男性は日本ではオートバイばかり乗りまわしていたと言っていて、額に大きなけがの痕がありました。日本社会にうまくなじめず、苦労したようです。それだけに中国との縁を生かして逆転を図りたいという思いがあったのでしょう。記者が一緒なら地元政府の役人ら関係者と容易に会うことができる。その後、彼の上司にあたる人も来て、ホテル建設の候補地など黒竜江省内の視察に同行することもありました。私にもずいぶん自由な時間があったものですね(笑)。


するとその上司から、日本への招待状が届きました。短期視察ビザの保証人になってくれると言うのです。外国からの招待は当時、だれもが驚く事件です。党機関紙の記者が出国するには、直属の監督機関である省宣伝部の許可が必要です。招待状を「検討」した結果、新聞社では公務出張と判断したらしく「省の許可が必要だ」と言うので、省委員会の庁舎を訪ねていきました。公務出張ですと国が背広などを新調してくれた時代です。

庁舎の入り口は軍人が守衛していてそこを通ろうとしたら「新聞社から電話です」と言う。不吉な予感に包まれました。電話に出ると「書類を再度検討したが公務ではないようだ。いったん戻りなさい」と言われました。
その夜はショックで眠れませんでした。しかしハルビンの公安局に朝鮮族の知り合いがいることを思い出し、翌日相談に行きました。すると、「この招待状なら私的な渡航で申請すれば旅券は出るだろう」と言うのです。旅券の取得は大変なことでしたが、彼が尽力してくれ、所属機関の審査なしで発行してくれました。旅券代はほぼ1カ月分の給料にあたる50元。初めて見る、手で触ることのできる自分の旅券。本当にうれしかった。
新聞社には2週間の休暇を申請しましたが、人事担当の上司から「一番いいのは行かないことだ。それでも行きたければ1週間で帰ってきなさい」と言われました。その上司は戦前、日本に滞在した経歴のある大ベテランの記者だったのですが、文化大革命中に「日本のスパイ」のレッテルを貼られて迫害を受けたからです。


それでも決意は揺らぎません。最後のハードルは日本大使館でビザを発行してもらえるかでしたが、大学の同窓生だった北京国際放送のアナウンサーが助けてくれました。彼のいとこが日本大使館の領事部で働いていたのです。ビザをもらい、一度ハルビンへ戻って写真と日記帳だけを持ち、「脱出」するような気持ちで上海へ向かいました。(聞き手 長戸雅子)

龍谷大学教授・李相哲(61)(10) 米から客人…「没有(メイヨウ)」の国に嫌気

2021-12-09 14:08:18 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(10) 米から客人…「没有(メイヨウ)」の国に嫌気

2021/5/4 10:00長戸 雅子
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話の肖像画反応朴漢植(パク・ハンシク)教授(右)と


《その客人は米国からやってきた。1979年、中国と国交を樹立した当時の米大統領、ジミー・カーター氏の地元、ジョージア州の大学で教壇に立っていた朴漢植(パク・ハンシク)氏だった》
朴氏は私と同じ中国の朝鮮族です。朝鮮戦争前に家族でソウルへ渡り、ソウル大学を卒業後、米国へ留学し定住したのです。カーター氏に中国や北朝鮮政策の提言をしていると聞きました。北朝鮮を60回も訪問、金正日(キム・ジョンイル)氏の側近だった金容淳(ヨンスン)氏らと親交があったようです。94年のカーター氏と金日成(イルソン)主席との会談でも、飛行機の中でカーター氏が読む資料、金日成の人物像など詳細な情報を準備したのが朴氏でした。
《94年5月、北朝鮮が寧辺(ニョンビョン)の原子炉でプルトニウムを生産していることが発覚。米国が施設への空爆を検討する中、カーター氏は平壌を訪れ、金日成と会談した。金日成は核開発の凍結などを約束し、危機は回避された》
朴氏の訪中のきっかけは、「中国のどこかに父の妹がいるので捜してほしい」というトウ小平氏あての手紙でした。トウ氏が国交樹立直後に訪米したとき、カーター氏を通じて手渡されたのです。朝鮮戦争で多くの家族が引き裂かれましたが、韓国や韓国系の人が中国に来るのは難しかった。
84年に叔母が(黒竜江省の省都)ハルビンにいることが分かり、朴氏に特別にビザが出されました。ハルビン駅に着いたら音楽隊がいたので、「一体誰が来るのだろう」と思っていたら、自分への歓迎のためだったと知って驚いたそうです。朴氏の訪問は地元でちょっとしたニュースとなりました。

朴氏は他の離散家族の調査もかねて中国に来たというので、記者だった私は会いにいきました。私が小さい頃に亡くなった父の兄弟が韓国にいるはずと母から聞いていたからです。すると、朴氏からも離散家族の調査を助けてほしいと頼まれ、新聞社の了解を得て2週間ほど一緒に中国各地を回ることになりました。その後も2年連続、朴氏の仕事を手伝いました。

龍谷大学教授・李相哲(61)(9)党機関紙「さまさま」の記者時代

2021-12-09 14:03:49 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(9)党機関紙「さまさま」の記者時代

2021/5/3 10:00長戸 雅子
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話の肖像画反応黒竜江省の湯原県で取材(左端)。党幹部が大歓迎で出迎えた


《改革開放の空気をたっぷり味わった大学時代。卒業後の1982年9月、中国共産党機関紙「黒竜江日報」の記者になった》
当時の就職は「分配」といって党が決めていました。卒業の半年ぐらい前に採用側が大学を訪ねてきて、要望書のようなものを提出したはずです。私たちは希望を聞かれる機会もありませんでしたし、選ぶ権利もありません。面接もしていません。
中国の当時の人口が約10億人でその年の大学卒業生は25万人ぐらいです。国営企業も新聞社も放送局も、どこも大学卒業生が欲しかったのです。その中でも新聞社は花形でした。伝票のようなものをもらって、「いついつまでに(黒竜江日報に)到着しなさい」と書いてありました。軍隊のようですね。
《日本では新人の新聞記者は地方支局に配属されて事件・事故などの取材に昼夜なく駆け回る。学生時代とは一転、睡眠時間も休みも思うように取れない日々が始まるのだが…》
最初の半年は何も記事を書きませんでした。先輩が行くところについて回るだけ。黒竜江日報は4ページしかなく、党の政策、会議のニュースなど、党からの発表で紙面の多くは埋まります。外国のニュースはすべて新華社。それなのにスタッフは1500人もいました。
今は違うけれど、当時は事件や事故の取材はしませんでした。何かを暴いてスクープするということもなかった。では、どういうことを取材して書くのかといえば、「どこそこでは共産党の政策がこんなにも行き届いていて成功している」というストーリーです。
党の方針に沿った話を書くわけですから、記者が行くと大歓迎です。どこへ行っても「記者さまさま」。取材には地元の党委員会の幹部ら宣伝部長がついて回り、大宴会を開くのです。

《1980年代半ば、トウ小平は「先富論」を掲げる。それまでのように皆が一緒にではなく、一部の人や地域が先に豊かになって貧しい人を助け、後に全体で豊かになるとの政策だ》

万元戸と呼ばれる金持ちが出てきました。牛乳の流通事業を成功させた農家とかレストラン経営で豊かになったという「お手本」を取材したりしました。
このほか、党への直訴とか汚職の有無などを調べて党委員会に報告する仕事がありました。不正、不平等が放置されると民心が不安定になりますから。これらが「調査報道」として中国の新聞に掲載されるようになるのは、これよりずっと後のことです。
記者の権力は相当なもので、私の先輩には「記者証をちらつかせて走る列車を止めた」と自慢する人もいました。北京などの大都市部だけでなく、地方にも記者が配属されてさほどたっていないときでしたから、万元戸の取材で村へ行くと「記者とはどんな顔をしているのだろう」と私たちをわざわざ見に来る人たちもいました。
新聞社のあったハルビンはロシア風の建物が立ち並ぶ異国情緒あふれる街。締め切りに追われることもなかったので、夕方になると、松花江のほとりで風に吹かれながら同僚とギターをいじり、ロシアの歌を歌ったりしました。

龍谷大学教授・李相哲(61)(8)「首領様が世界に号令」に唖然

2021-12-09 13:55:01 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(8)「首領様が世界に号令」に唖然

2021.5.2 10:00ライフくらし
  • 話の肖像画 龍谷大学教授・李相哲
帰省時に故郷・黒竜江省の紅旗村で友人の親戚の女の子と。大学生は当時、尊敬の的だった


 《1980年。改革開放で発展に向かう中国と入れ替わるように、「文化先進国」だった北朝鮮の輝きが後退していく》
 生まれ故郷、黒竜江省の村にいたときは北朝鮮にも行ってみたいと思っていました。映画に出ている女優とか、音楽に憧れていましたから。
 朝鮮戦争で中国の朝鮮族は北朝鮮と一緒に戦ったので、一時期はルーツだった韓国より北朝鮮との連帯感が強かったかもしれません。村には「革命烈士」(朝鮮戦争中に犠牲になった人)という赤い花がついた額が掛けられていた家もあって、「名誉の戦死」として自慢にしていたような記憶があります。
 しかし大学に入ったころには、威勢のいい表向きの宣伝とは裏腹に、北朝鮮の厳しい経済状況が私たちにも伝わるようになっていました。朝鮮族は北朝鮮に縁故者も多くいて、かなり自由な行き来があったのです。
 ある日のことです。北京の中心部・中南海にほど近い所にある冷麺店に友人と入ったところ、北朝鮮からの留学生が隅っこに座っていました。留学生が苦学していることは知っていたので、同じテーブルに招いたのです。私たちは国民に豊かな生活をさせることができない金日成(キム・イルソン)を遠慮なくののしりました。
 友人の中には文化大革命の悲劇を目の当たりにして、絶対権力者の専横が国民にどれほどの災難をもたらすかを目の当たりにしていた人もいました。
 すると留学生は気色ばんで「わが共和国は首領様がいたから世界最強の国になったのだ。みなさんは南朝鮮反動(韓国)や資本主義のやつらの宣伝ばかり聞いている。わが首領様が世界に号令するという事実を知らないのだ」と言い放つではありませんか。


 でも今思えば、そのときの北朝鮮はまだ韓国と競争できるだけの体力はあったのです。私たちは唖然(あぜん)としました。冷麺だってやっと食べられるほどの懐具合なのに。中国に2年以上もいて、さまざまなニュースに接しているはずなのに、北朝鮮が世界を動かしているなんて、本気で思っているのだろうかと。
 この年の冬だったと記憶しますが、帰省したときに興味深いエピソードを聞きました。村に遊びに来ていた近郊都市に住む朝鮮族の高齢の女性が「平壌の親戚とけんかしたからもう二度と行かない」とこぼしたというのです。
 彼女は国防委員会第1副委員長だった趙明禄(チョ・ミョンロク)の親戚でした。趙は金正日(ジョンイル)総書記の特使として2000年に訪米、当時のクリントン大統領やオルブライト国務長官と会談した人物です。彼女が平壌の家に遊びに行ってアルバムを見ていたら、最初に正日の写真があったので、「この人は前妻(金正淑(ジョンスク)、正日の実母)の息子? それとも後妻(金聖愛(ソンエ))の息子?」と聞いたらその場が凍り付いてしまった。

 「非礼極まりない発言」ととがめられ、すぐ荷物をまとめて帰るようにせかされたというのです。親愛なる指導者を「だれだれの息子」と言ったり、「前妻」「後妻」という言葉を使ったりしたことが不敬とされたのでしょう。当時、金正日が絶大な権力を得ていたことを示す話でした。当時は聞き流していましたが、もっと詳しく聞いておけばよかったと思います。
 戦争をともに戦った北朝鮮と中国の朝鮮族の連帯意識にも影がさし始めていました。(聞き手 長戸雅子)

話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)(7)日本映画「絶唱」にグッときた

2021-12-09 13:46:50 | 日記
話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)(7)日本映画「絶唱」にグッときた

2021.5.1 10:00ライフくらし
  • 話の肖像画 龍谷大学教授・李相哲

 《激戦となった入試を勝ち抜き、晴れて大学生になった。文化大革命で一般入試が10年以上も中止されていたため、クラスメートの年齢も、歩んできた人生もさまざまだった》

 中央民族大学文学言語学部(朝鮮語専攻)は24人でした。クラスメートには記者や雑誌編集者ら、すでに各地で活躍していた人もいましたし、私より10歳上の人もいました。女性8人、男性は16人です。
 自由の空気に包まれて毎日、北京の街を歩きました。大好きな小説もたくさん読みました。とはいえ、外国の小説などは手に入りにくく、自由に借りることはできません。しかしクラスに北京国際放送(ラジオ)のアナウンサー2人が聴講に来ていて、彼らが日本の国会図書館にあたる施設の入館証を持っていたので、いろいろと借りてきてくれました。
 《このクラスメートは後年、日本に渡航するときにも大きな手助けをしてくれることになる》
 借りて読んだ本では、川端康成や三浦綾子の小説に感動しました。「雪国」の「トンネルを抜けると…」は、その情景がほうっと浮かんできた。三浦綾子の「氷点」は医師の夫と奥さんが同じ屋根の下ですれ違った心で暮らしているというストーリーでした。日本の家族はこんなふうにバラバラの心で暮らしているのだろうか、と不思議に思ったものです。
 いずれも翻訳本ですが、原文の繊細な筆致が伝わってきて、日本人とは何と細やかな感性をもっているのだろうと感じ入りました。「雪国」の影響か、当時の私が日本に抱いたイメージは、白くて清潔なところでした。
 《改革開放を受け、時代はどんどん変わっていく。1978年、中国は日本と平和友好条約を締結。79年1月には米国と外交関係を樹立した。自由な資本主義社会の文化が一気に流入し、若者の心をとらえた》

 より大きな影響を受けたのは映画です。79年だったと思いますが、「日本映画週間」のイベントがありました。高倉健の「君よ憤怒の河を渉(わた)れ」を見て、権力に抵抗する男のカッコよさ、反骨精神に感動しました。
 《「君よ憤怒の河を渉れ」は無実の罪で主人公が追われる姿に、文化大革命で辛酸をなめた人々が共感。8億人が見たといわれる大ヒット作となった》
 さらに心に残ったのは山口百恵、三浦友和主演の「絶唱」です。
 《「絶唱」は1958年に出版された大江賢次の小説。地方の地主の息子と山番の娘の悲恋物語で、これまでに何度も映画化・ドラマ化されている》
 百恵ちゃんが演じる小雪が三浦さん演じる園田に「私は夜寝るとき歯ぎしりするし、厨房(ちゅうぼう)で物を盗んで食べるし、あなたにはふさわしくない」というようなことをいう場面がある。園田が「そういうところもすべて好きだ」という場面にグッときました。
 自分の欠点をあえて打ち明けるなど、中国の映画の主人公にはなかった描写です。中国の映画は人間の内面を掘り出したような描写ではなく、革命精神というか、党から見た優等生、理想的な人間が主人公で、人間の本心を隠したものだから感動がないわけですね。イデオロギーが介在しない純愛物語に私たちは感動しました。小雪が病床で戦場から戻ってくる園田を待つ場面では、園田が「侵略戦争」に参加した日本兵だということを忘れ、みな園田を応援して泣いていました(笑)。(聞き手 長戸雅子)