龍谷大学教授・李相哲(61)(11) 運命を変えた電話、決死の日本渡航
2021/5/5 10:00長戸 雅子
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話の肖像画反応新聞記者時代
《米国の大学教授との旅を通して、自由への思いが一層強まっていた1986年の冬。1本の電話が勤務先の新聞社にかかってきた》
活字を組む工場で新聞のゲラをチェックしていたら横にあった電話がリーンとなりました。たどたどしい中国語で、「自分は残留孤児2世だ」と名乗る男性からでした。「残留孤児だった母と一緒に日本に渡ったが、今ハルビンに来ている。日本と中国の間でビジネスをしたいけれど、中国語に自信がないので日本語のできる人を探している」と言うのです。
独学でしたが、日本語を少し勉強していたので私がお手伝いすることにしました。日本とのつながりが何かできればという思いももちろんありました。
残留孤児2世の男性は日本ではオートバイばかり乗りまわしていたと言っていて、額に大きなけがの痕がありました。日本社会にうまくなじめず、苦労したようです。それだけに中国との縁を生かして逆転を図りたいという思いがあったのでしょう。記者が一緒なら地元政府の役人ら関係者と容易に会うことができる。その後、彼の上司にあたる人も来て、ホテル建設の候補地など黒竜江省内の視察に同行することもありました。私にもずいぶん自由な時間があったものですね(笑)。
するとその上司から、日本への招待状が届きました。短期視察ビザの保証人になってくれると言うのです。外国からの招待は当時、だれもが驚く事件です。党機関紙の記者が出国するには、直属の監督機関である省宣伝部の許可が必要です。招待状を「検討」した結果、新聞社では公務出張と判断したらしく「省の許可が必要だ」と言うので、省委員会の庁舎を訪ねていきました。公務出張ですと国が背広などを新調してくれた時代です。
庁舎の入り口は軍人が守衛していてそこを通ろうとしたら「新聞社から電話です」と言う。不吉な予感に包まれました。電話に出ると「書類を再度検討したが公務ではないようだ。いったん戻りなさい」と言われました。
その夜はショックで眠れませんでした。しかしハルビンの公安局に朝鮮族の知り合いがいることを思い出し、翌日相談に行きました。すると、「この招待状なら私的な渡航で申請すれば旅券は出るだろう」と言うのです。旅券の取得は大変なことでしたが、彼が尽力してくれ、所属機関の審査なしで発行してくれました。旅券代はほぼ1カ月分の給料にあたる50元。初めて見る、手で触ることのできる自分の旅券。本当にうれしかった。
新聞社には2週間の休暇を申請しましたが、人事担当の上司から「一番いいのは行かないことだ。それでも行きたければ1週間で帰ってきなさい」と言われました。その上司は戦前、日本に滞在した経歴のある大ベテランの記者だったのですが、文化大革命中に「日本のスパイ」のレッテルを貼られて迫害を受けたからです。
それでも決意は揺らぎません。最後のハードルは日本大使館でビザを発行してもらえるかでしたが、大学の同窓生だった北京国際放送のアナウンサーが助けてくれました。彼のいとこが日本大使館の領事部で働いていたのです。ビザをもらい、一度ハルビンへ戻って写真と日記帳だけを持ち、「脱出」するような気持ちで上海へ向かいました。(聞き手 長戸雅子)