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【京都幕間旅情】八坂神社 年末年始の除夜祭と白朮祭の情景と共に考えるこの祇園社のはじまり

2017-01-25 23:00:23 | 写真
■大晦日八坂は白朮祭の賑わい
 京都幕間旅情、一週間の幕間に当たる水曜日にお送りする特集、今回は八坂神社の年末年始に舞われる除夜祭と白朮祭、この情景をお伝えしましょう。

 写真特集京都幕間、京都の四条通、最大の繁華街である道筋を進みますと八坂神社、赤い楼門に突き当たります。この場所、中心部の中でも京阪や阪急の駅に近い事から、京都散策、特に中心部でちょっと一杯、という際の酔い覚ましに散策する事も多い場所の一つ。

 年末と年始に除夜祭と白朮祭が執り行われ、火縄にこの火を灯し持ち帰り竈へ灯せば一年間無病息災で過ごす事が出来るというご利益が知られる八坂神社、今回はこの八坂神社の始まりについて、一年最後の除夜祭と一年始まり白朮参りの様子と共にみてゆきましょう。

 八坂神社散策という夜のちょっとした風景巡行を楽しみまして、他の有名な寺社仏閣、特に京都から離れた大都市の寺社仏閣周辺を散策しましたらば、驚かされるのは夜に参拝しようと思いまして足を運べば、その楼門が閉ざされている事が多い、ということでした。

 祇園社、と呼ばれました時代が長く、八坂神社と称されるようになりましたのは明治時代に入って以降との事で、この界隈が祇園の街並みとも呼ばれるのですが、祇園祭、京都に夏を知らす壮大な祭事は、御存じの通りこの八坂神社から始まる疾病祓いの伝統行事です。

 千年の都京都と、京都を示す常套句がありますが、八坂神社は平安遷都よりももう少し古く、その創建は斉明天皇治世下、656年に遡るとのこと。この年は岡本宮が奈良は飛鳥へ造営された時代でもあります、平安遷都以前、都が点々と遷都を続けた狂騒の時代でした。

 舒明天皇の岡本宮遷都は現在の奈良県明日香村雷丘を飛鳥丘と改め、一旦629年に遷都したのですが火災によりあっけなく焼失、田中宮として現在の橿原市へ仮宮を造営したものの舒明天皇が崩御、皇位継承で女帝となった斉明天皇が岡本宮へ再遷都したのがこのころ。

 岡本宮は後飛鳥岡本宮として焼失前の岡本宮と今日では区別されますが、斉明天皇治世下、繰り返される遷都と造営は民衆の労役として非常に大きな負担となっていた時代、八坂神社は高句麗の使者伊利之使主がお釈迦さまの生誕地を守る守護神祀り創建したと伝わる。

 牛頭大王、八坂神社が祇園社と称された頃に祀られた祭神の一柱ですが、この御柱は釈迦の生まれた聖地祇園精舎の守護神としており、牛頭大王の御名が新羅の山岳名と所縁あるとの事から、よく似た風土風情の山城国愛宕山八坂から八坂の名を併せて冠した、という。

 山城国愛宕山八坂、旧海軍の戦艦と重巡洋艦の由来となった地名が重なりますが、八坂神社の始まりはこうした所以がありました。その後、平安遷都を経て京都の都大路の外縁に位置する寺社との位置づけを持ちましたが、貞観年間に入り牛頭大王分祀が執り行われた。

 播磨国広峯へ牛頭大王分祀が執り行われたのですが、貞観年間というのは、貞観富士山噴火という有史以来最大の富士山噴火や貞観三陸地震という、東日本大震災の際に比較される昭和三陸地震や明治三陸地震上回る過去千年間最大の地震津波災害等が起きた時代です。

 貞観年間には貞観播磨地震として、現在の神戸市を中心に尼崎市から明石市までに及ぶ広い地域へ被害を及ぼす地震が発生したばかりの頃でして、民心安定へ播磨国広峯牛頭大王分祀を行う必要があった訳です、これは遷座ではありませんが吏員の一部も移りました。

 藤原基経、藤原氏が生んだ初の関白は876年、八坂神社へ素戔嗚尊を播磨国広峯牛頭大王分祀に合せ祀り、続く疾病祓いの神事が素戔嗚尊の威光を以て討ち払う神事であることに照らせば、この瞬間が八坂神社が今日の姿となった瞬間とも言えるやもしれませんね。

北大路機関:はるな くらま
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