源氏物語と共に

源氏物語関連

紫式部と清少納言

2013-03-12 15:58:44 | 紫式部
 
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山本淳子先生の講座を拝聴。
 
この題名にひかれて来た人もいて、結構満員だった。
 
紫式部が清少納言を痛烈に批判するいわゆる消息文体中心だったが、
お昼ご飯の後だったので、ついウトウトしてしまい、
自分でも驚いた失礼いたしました
 
内容はいつも通り面白い
先生は、何か舞台でもできそうなぐらい、こわ色をかえて
紫式部の清少納言批判を見事に演じきって文を読まれたのには、驚いた。
 
枕草子が悲劇の定子を、定子死後の回想の中で、
鮮やかに美しい思い出として枕草子を描き続けたため、
昔の定子のサロンは良かったと思う貴族も多数いた。
 
彰子のサロンは、お嬢様育ちの方ばかりで、
伝言もきちんと取り次げない人ばかり。
しかも、色ごとを彰子が好まないとあって
尚更男性に取り次ぐ人も少なかった。
当時は、女性が男性に顔を見せる事は恥ずかしい事であったため、
かなり下の身分の人達が下手に取り次ぐ事になってしまったから、
彰子のサロンはつまらないと、貴族の中には、そういう批判もあった。
 
また、20歳の一条天皇にとって、入内した彰子は12歳の子供。
23歳で死んだ思い人である定子の思い出は永遠である。
そんな中、枕草子が出回って、尚更思い出に涙したことであろう。
 
彰子側の人間としては、目障りな清少納言の枕草子だった。
 
しかし、紫式部と清少納言の2人が一緒に内裏にいたことはなく、
定子の死後に紫式部は彰子に仕えた。
 
道長のもくろみは彰子側に天皇をよび、無事男子出産を迎える事。
その手段としての、源氏物語で評判だった紫式部の起用は
結果的に成功だったといえる。
 
彰子は、次第に一条天皇のお好きな漢詩を紫式部から学ぶようになり、
紫式部も密かにそれをささえた。(定子は漢文の素養もあった)
 
入内してから9年、やっと彰子は、懐妊と、男子出生を得た
36時間お産で苦しみ続けた彰子は、
いつもより弱々しく寝ておられたと紫式部日記で
式部は描いている。母親のような気持ちではなかったかと。
 
清少納言は悲劇の定子の思い出を美しく描き、
紫式部は肩に、身分高い身分に生まれ、入内して男子出産という重圧を受けながらも、
それを隠し通した彰子の身
自分の悲しい身(の上)を同じ女性として共感し、同士として応援した。
 
清少納言も紫式部も自分のお仕えする主人に
心底熱い思いを持っていたといえる。
 
だからこそ、この2つの傑作女流文学が今も残ったのであろうかと。
 
4月中頃に、BSTBSで、瀬戸内寂聴氏が清少納言側、
山本淳子先生が紫式部側で擁護する番組あるそうなので、
それも楽しみにしたいと思う
 
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コメント
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