源氏物語と共に

源氏物語関連

定子と彰子

2009-06-20 10:27:36 | その他
最近忙しくて、源氏物語から脱線しております。


やっと山本淳子先生のお話を聞くことができました。
とても感激しました♪


一条天皇の最後の辞世句、両方の解釈があるという事を
わかりやすく説明していただきました
「露の身の 草の宿りに 君をおきて
    塵(ちり)を出でぬる ことをこそ思へ 」
               (御堂関白記=みどうかんぱくき)道長

「露の身の 風の宿りに 君をおきて
   塵(ちり)を出でぬる 事ぞ悲しき 」 (権記=ごんき)藤原行成


(栄華物語)<定子辞世句>
「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも
        草葉の露を それと眺めよ」  




一条天皇の辞世句については、本によって言葉が違っています。
栄華物語も新古今和歌集も微妙に違います。


最後は意識が朦朧としてしまい、
一時的に目を覚まされた時の歌であったから、
ハッキリと声も聞き取れなかったのでしょう。


中宮彰子もすぐ側にいて、この句を聞きました。


普通に考えると<君>とは<彰子>と思うはずです。


しかしここで行成は一条天皇の思い人・定子の辞世句が浮かび、
言葉が違っているのでしょうとのことです。
権記を書いた行成は枕草子にもよく出てくる人物です。
清少納言とも親しかったようです。


しかし、道長の肩を持つ人物だったとも。
実際に、元蔵人頭として、一条天皇が皇太子を迷った時に、
一条天皇の長男である定子の子供・敦康親王ではなく、
まだ幼い彰子の長男・敦成親王を皇太子にすることをすすめています。


権記には、「この歌のお志は皇后に寄せたものだ」(大意)と
しるしています


この<皇后>とは、定子なのかそれとも中宮である彰子をさすのか。
その後、権記の用例をすべて調べられたそうです。


結果は、やはり権記では、皇后は定子をさすのではないかということでした。
ずっと看病していた彰子が可愛そうですね~
しかしこれはあくまでも行成の考えです。


彰子は当然、<君>は自分、その意味の和歌だと思った事でしょう。
普通ならそう思いますし、実際にはこの歌の<君>の解釈はわかりません。


彰子はその後、一条天皇の死を悲しみながらも、
華美な宴会を中止させたりして立派に生きます。
子供達は天皇になり、それを見守り87歳の天寿をまっとうしました。


はじめは子供で入内した彰子も、
一条天皇の好きな漢文を紫式部から学び、
お好きな源氏物語をさしあげ、努力して8年後に子供を生み、
定子亡き後の一条天皇をささえます
(一条天皇は定子亡き後、定子の妹に手をつけるも、この人は早くに亡くなる)


彰子は一条天皇の言葉を守りました。


彰子の立派な教えを後の孫達に伝えている文献が残っています。


道長の孫の孫・藤原忠実・1230年ごろの「中外抄」によると


『天皇や摂関は慈悲の心をもって国を治めなくてはならない。
昔、祖父(道長の孫・藤原師実)は上東門院(彰子)に
「一条天皇は寒い夜にはわざと暖かい夜具を脱いでいらしゃった。
私がどうしてでしょうかとお尋ねすると、
日本国の人民が寒がっているだろうに、
私がこうして暖かく寝ているのは良心が痛むとそうおっしゃった』
ということが書かれています。


孫の孫にも伝わっている立派な考えですね。


源氏物語も枕草子も、紫式部日記も
1000年前の一条天皇の時代に生きた
定子と彰子という2人の女性の存在・生き様を
歴史に残しているとおっしゃっていました。


とても感激しました。どなたかに小説でも書いていただきたいものです。




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