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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ヨブ記40章

2013年04月10日 06時25分23秒 | ヨブ記
<朝のディボーション>
神はヨブを「非難する者」(1節)、つまり「あら捜し屋」と呼ぶ。ヨブは、神に難癖をつけているのである。ヨブは気づいた。「ああ、私はつまらない者です」(2節)ヨブは自分が本当に、地の塵から造られたに過ぎない者、全能者の前には無に等しい者であることを悟らされていく。
そんなヨブに、さらに神は語る。聖書の神は教育的である。高慢の鼻をへし折って終わりではない。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(6節)と、ヨブが立ち直っていくように働きかけている。ヨブにとっての関心は、神の契約の民である自分の義がどうなるか、という部分であった。神の契約の民は、特別に扱われるべきである(詩編4:3)。しかし、契約を無にするような扱いを受けるのはなぜか、ということである。だが、そのことに拘れば拘るほど、神を罪に定める結果となる。自らの人生に不本意な事が起ころうとも、イエスが十字架を忍んだごとく、受け入れられるかどうかが、問われるところである。
つまり大切なことは、私たちの信仰はご利益ではない、ということだ。物事が順調にいけばよし、しかし物事がうまくいかなくなれば、神につぶやき、神に難癖をつけるというのであれば、結局ご利益信仰と大差はない。不本意なことが起こっても、なおも、神に自身の人生を委ね、神の最善を信じていくのが、まことの信仰であり、いかなる時も、神を神として崇め、神に栄光を帰す生き方を、私たちはどこかで学ばなくてはいけない。それができるまで、何度も同じ試練を通らされることになる。
<夜のディボーション>
15節から、神は河馬について語られる。なぜこんな生き物を神は取り上げられるのか。「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの」「杉の木のように垂れた尾、絡み合ったももの筋、青銅の管のような骨、鉄の棒のような肋骨」(18節)人間に勝る力強さがある。しかし神は、「ご自分の剣でこれに近づく」(19節)。直訳調であるが、河馬を創造した神は、これをご自分の剣で殺すお方である、ということだろう。つまり人間が恐れをなす怪物のような生き物も、神の前には赤子のような存在である。神の偉大さを思わせるたとえである。
だが、そんな神を恐れず、見くびる私たちの現実がある。一方、神はそれほど偉大でありながらも、人間を大切に扱われる。イエスの十字架の死は、神がご自分の魂と人間の魂を等しいものとされた行為に他ならない。私たちは本来神の目には塵に等しい、虫けらの存在である。しかし神は人間をそのようには扱わない。十字架の血潮によって尊厳と威光を着せてくださった。そして、私たちを勇士として扱われる。
 そういう神であればこそ、今の苦難においても神に委ねることの、素晴らしさと希望を感じるだろう。神に苦に感じている事柄の行方を任せてみよう。神がどうなさるのか。自分の義を主張することを止めて、神の義がどのようにあらわされるのかを見てみようではないか。時を待てということだろう。

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