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エゼキエル書7章

2020年09月11日 07時19分54秒 | エゼキエル書
7章 終わりの日が来た(7:1-27)
おはようございます。混沌とし、迷走していく社会において何を頼るべきか、何に声をあげるべきか、考えさせられます。天地創造のまことの主を呼び求めたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.終わりだ
当時のイスラエル人たちは、自分たちの日常性が失われるなど、思ってもみなかったはずです。戦争や疫病、飢饉などの噂を聞いても、それが自分たちの生活を根こそぎにするなど、考えもしなかったことでしょう。今の時代もちょうどそのようなものかもしれません。ともあれ、エルサレムは聖なる都、決してこれが揺るがされることはない、という迷信的信仰すらありました。しかし、神はこのイスラエルを裁こうとしていたのです。
エゼキエルは言います。「終わりが来た」(2-4節)。約850年に渡る忍耐の末、神はイスラエルに宣告されました。「わたしはあなたを惜しまない」(4節)。もはや、主に選ばれた民、主の都も例外ではなく、主のさばきに晒されるのです。
「杖が花を咲かせ、高慢がつぼみを出した(10節)」とあります。かつてアロンの杖は、芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んで、神に選ばれた者を明らかにしましたが(民数17:10)、ここでは、イスラエルが反逆者であることをしるすものとされています。そして、今やその高慢さを支えるものが、皆失われるのです。
2.頼るものはない
国が破れてしまえば、それまで手にしていた財産は皆征服者のものになるでしょう。そしてお金もただの紙切れです。神の審判の前に、お金などなんの役にも立ちません。
国を守る軍隊すら、当てにならない事態が生じるでしょう。敵機来襲と、けたたましくサイレンが鳴らされても、だれも迎え撃つ者などいない、と(14節)。敵の圧倒的な力に、エルサレムはねじ伏せられますが、それは力の差によるのではなく、神の「燃える怒り」によるものです。つまり契約違反に対する神のさばきなので、剣のみならず、疫病、飢饉と、あらゆる災いが及ぶことになります(15節)。
ですから、神とされてきた偶像も、ただの木くずであり鉄くずである、その本当の正体をさらけ出すことになります(20節)。ちなみに「鎖を作れ」(23節)は、口語訳では、「また荒れ地とする」になっています。これはヘブル語のギリシャ語訳(七十人訳)に沿ったもので、22節に続けて意味を取る結果です。徹底した破壊を語るものとする修正訳です。しかし新改訳は、捕囚を象徴する表現として、そのまま訳出しています。
最後に、預言者や祭司、長老、つまり指導者たちに助けを求めても無駄です。当時、預言者は、幻によって神の啓示を示し、祭司は律法によって民を導き、長老たちは知恵ある助言をする者たちでした。しかし、彼らのだれも、先を示すことはできないでしょう。神がもたらす裁きは、人々がより頼むお金も、軍隊も、偶像も、指導者も何一つ助けとはならない終末的な状況を引き起こすのです。ですから神が、これを思い直して「もう十分だ。手を引け」(2サムエル24:16)と言わない限り、そこには何の望みもないのです。
エゼキエルは、先に鉄の板を用いたパフォーマンスで、神がエルサレムから御顔を隠される、預言をしています。今や、ことばではっきりと「わたしは彼らから顔を背け」(22節)と言います。注目すべきは、「わたしが秘宝とする所は汚される」という、神とエルサレムの関係でしょう。神が秘密の宝とされた、つまり、エルサレム侵略はあり得ないことであったにもかかわらず、それが起こった、ということです。3.11東日本大震災の記憶は風化されようとしていますが、あの出来事の後、謙虚に頭を垂れて、人間の力を超えた何者かに静かに祈る思いにさせられた方々は少なくないはずです。主の愛に訴えて、主が思い直し、主が災いを止められるように、と教会に集い共に祈りをささげたいものです。


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