6章 高き所、偶像崇拝への警告
おはようございます。偶像崇拝は、偶像を拝む以上に、神の民としてのアイデンティティを失わせ、神の心を悲しませるものです。神の民である誇りを大事にしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.高き所
4:1-5:17では、主の聖所があるエルサレムに焦点が合わせられていましたが、ここでは「イスラエルの山々に顔を向け 」預言せよ(1節)とイスラエルの地に散在した高き所に目が向けられています。つまりイスラエルを汚した高き所での偶像崇拝に警告が発せられているのです。
「高き所」(バーマー)は、単純に小高い丘などを意味することばですが、通常は丘の上に築かれた聖所や聖域を意味し、土着の人々が偶像崇拝の場とした所でした。カナン入植後、イスラエルの民は、その高き所を破壊するよう命じられています。しかし実際のところ、ソロモンによって神殿が建てられる前は、イスラエルの民も、高き所で主のためにいけにえを献げ、礼拝をしていました(1列王3:2)。そしてソロモンによって神殿が建立されると、高き所は偶像崇拝の場として区別されるようになりますが、それらは存続し続け、背教の温床となるのです。こうした状況を改革し、あらゆる礼拝をエルサレムに集中させ、エルサレム神殿を唯一の中央聖所にしようと初めて試みたのはヒゼキヤでした(2列王18:1-5、2歴代29-31)。しかし、彼の努力は後継者のマナセによって水の泡と化してしまいます。曾孫のヨシヤが再び改革に乗り出しますがあまり成功したとは言えないものでした(2列王22-23章、2歴代34章)。結果はヨシヤの死後、国全体で、高き所での礼拝が再び盛んとなり、エゼキエルが警告する状況ができあがっていたわけです。
なお、通常高き所には、いけにえのための祭壇と柱(マセバー)が備えられていました。柱は、男性性器のシンボル、またはカナンの神々であるアシェラかアシュタロテの像であったとされます。遊牧民であったイスラエルは、カナン定着後、この地の農耕文化に触れるとともに、この高き所の偶像崇拝の影響を受けるようになりました。それらは、主として豊作を目的とし、生殖繁栄の原理を反映した生殖神を崇拝する儀式からなるものでした。ですから、そこで行われる儀式は、しばしばいかがわしく、不道徳な聖娼制度まで備えられていました。イスラエルの民は、預言者の警告にも関わらず、こうした高き所に近づき、偶像崇拝に陥り、神の民としての聖さを失い、神の心を悲しませたのです(9節)。
2.高き所への裁き
神はその高き所を打ち壊すと言われます(4節)。「あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の周りに散らす」(5節)というのは、ヨシヤ王の宗教改革の時のように、汚れたものと考えられる人間の死体と骨で、偶像礼拝の祭壇を汚し、偶像礼拝を終わらせることを意味しています。かつて考古学の発掘調査の時に、偶像崇拝を止めさせるために、偶像の神があった場所に公衆便所が築かれた現場を見たことがあります(2列王10:27)。それと同じです。また礼拝の場所ばかりではない、生活の場である町々も廃墟となり荒らされる、と言います。神の裁きは徹底しています。しかしそのような裁きの中で、残される者がいること、そして、裁きが残された者に「主を知らせる」目的をもってなされることが大切です。
「リブラ」は、一般にユダの東の境界というべき場所です。となれば西側の荒野から東側のリブラまでは、ユダ全体となります。ユダ全体が神の裁きを受けたことが明確になれば、人はこれが主から出たことを認めざるをえなくなる、と。そのような意味で、今日の世界全体に広がるコロナ禍も主を認めさせるためのものであるなら、そこに、ある種の悔い改めが求められていることになります。そしてその悔い改めは、未信者に対しではなく、まさに、主の民に向けられていることも間違いはないのです。