あおの気持ち

今となっては「「みんな頑張れ~」」かな
世の中ってプラマイゼロだから。自分が人のために損することを惜しまない。

10年前

2021-03-12 | Weblog
震災のとき、宮崎市に居た。

翌日だったか、延岡まで移動。

移動中にラジオ聞いてると「津波が来るので」と
日向あたりの国道10号が通行止め。

もう少しで日向ってとこで大渋滞でUターン。

高鍋まで戻ると山道が有るけど
記憶ではワイナリーを目指した。
そのワイナリーを目指すと高鍋まで戻らずに
山道に行きついた と思う。

その山道は延岡まで ひたすら山道。
今は高速できたけど、その頃は無かった。

翌日、延岡での作業を終え宮崎市内に帰宅。
津波被害は無く普通に国道10号線で。


何日後だったか
関東の客先の復旧応援要請。
埼玉か横浜のユーザー。

当時の親会社支店長から
「社員一人と協力会社から一人の要請だけど、アンタの会社だけ手を挙げてない」と言われ手を挙げた。

わたしが行くことになり、羽田に飛んで社員さんと合流して
バスで横浜まで移動。

(新横浜からは徒歩で10分くらいかな?)
ビジネスホテルに到着。

その頃、計画停電が予定されてて
連泊だから部屋は2階(エレベータ使えない時のこと考えて)

新横浜に着いて思ったのは「「暗い」」。
チェックインして夕食。
ホテル出たけど、コンビニは暗いけど営業中だったけど
棚には食べ物は無かった。

怪しい中華料理店を見つけ夕食。


翌日からは、朝現場まで迎えに来てくれて夕方またホテルまで送ってくれるの懲り返しで
2週間くらいだったか 乾電池無くて鹿児島から送ってもらった。

毎日昼食は横浜ラーメン。
夕食は怪しい中華屋だった。

時々余震が有って 逃げるほど揺れた時も有った。


宮崎に戻って 同業者さんから電話で
「応援行ったなんてスゴイですね」と。

「「支店長から、みんな行ってもいいって言ったと聞いてるけど?」」と言うと
「協力会社は誰一人行くって言ってませんよ」と。

ま、こうして当時の思い出書けるし
いい経験にもなったし
(たぶん)客先のためになっただろうから
よかったのかな~ と。
コメント