ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“Bitter Blood” ③

2012-04-28 18:49:33 | 事件

医者志望のトムだったが、成績がわずかに及ばなかったため歯科医学に進路を変更。
学業に加え志願して兵役も務めたため、歯科医として開業する準備が整ったのは結婚して6年後だった。
1974年8月30日、トムとスージーの間に最初の息子ジョンが誕生。
1976年3月26日には次男のジェイムズ(ジム)が生まれた。
2人の名前はスージーの母親フローレンスの、幼くして死んだ双子の弟の名を受け継いだものだった。

                            スージーと息子たち

子供の頃から西部に憧れていたトムは、ニューメキシコ州のアルバカーキーが気に入り、そこで1976年夏に開業する。しかしスージーは「荒っぽい雰囲気の」アルバカーキーにまったく馴染めなかった。トムはランニングやキャンプや山歩きが好きなスポーツマンタイプ。一方スージーはアウトドアには一切興味はなく、オペラやクラシック・コンサートを好んだ。故郷から遠いアルバカーキーでは、『偉大なる女性判事スージー・シャープ』のことも『世界的に有名なクレナー医師』のことも誰も知らない。シャープ家の誇りと名声に包まれて育ったスージーにとって、それも不満の種だった。
トムがグランド・キャニオンを見に行こうと誘っても、インディアン保留地を訪問しようと言っても、スージーは断る。マラソンを始めたトムがレースに参加しても、息子たちを連れて見に来ることもなかった。終いにはトムは、自分一人で出掛けるようになった。スージーは気分転換のため、息子たちをベビーシッターに預けて勤めに出るようになった。

成長するにつれジョンとジムは、子供の頃のスージーのような、ひどいかんしゃくを起こすようになる。また子供たちの顔や腕に、傷や痣が現れるようになった。
ある日トムが仕事を終えて帰宅すると、ジョンが右腕を妙な感じに抱えていた。病院に連れて行ったところ、骨が折れていた。ジョンにどうしたのか訊くと、「ベビーシッターの家のベッドで飛び跳ねていて落ちた」と答えた。トムはベビーシッターには何も言わなかったが、言っていたら、ベビーシッターは「そんなはずはない」と反論していただろう。ジョンもジムもお漏らしする癖があったため、ベビーシッターは自宅の寝室には二人を入れていなかった。

また別の日のこと。朝スージーが二人をベビーシッターに預けて仕事に行った。しばらくしてベビーシッターは、ジムの頭に大きなコブができているのに気づく。驚いた彼女はスージーの勤務先に電話し、すぐにジムを病院に連れて行った方がいいと忠告する。スージーは二人を迎えに来たが、病院には行かずにまっすぐ自宅の隣家に行き、「ベビーシッターに急用ができたので」2人を預かってもらって仕事に戻る。夜帰宅したトムがコブに気づき、ジムを病院に連れて行くと、「軽い脳震盪を起こしているから一晩入院するように」言われる。ジムは「階段から落ちた」と言ったが、医者はあのケガは「階段から落ちてできたというよりは拳で殴られてできたもののようだ」と虐待を疑い通報した。しかしトムは、それまでスージーが子供を叩くところなどまず見たことがなかったため、虐待を露ほども疑わなかった。自分たちが『虐待の容疑者』として調べられていたことをトムが知るのは、ずっと後になってからだった。

仕事に出るようになってもスージーの不満と惨めさは変わらず、トムとスージーの間の溝は深まる一方だった。1979年初夏、スージーの父方の祖父(“ニューソム事件”で殺害されたハッティーの夫でボブの父親)が何度か続けて脳溢血を患ったので、スージーは息子たちを連れて7月、「祖父のお見舞いのため」実家に戻る。しかし言葉には出さなくとも、トムもスージーもスージーがもうアルバカーキーに戻ることはないとわかっていた。一週間後、スージーはトムにそれを確認する電話をかけた。そうして2人の結婚生活は、9年で終わりを告げた。

実家に戻ったスージーは、周囲には「結婚後人が変わってしまったトムに、もう結婚生活を続けたくないから子供たちを連れて出て行くよう言われた」と説明した。別居の調停で、子供の養育費などに加えて自分の経済的自立に向けての学費の支払いもトムから取り付けたスージーは、「中国語を習うと将来役に立つ」と思いつき、台湾への留学を決める。5歳と3歳の息子たちも連れて行くというスージーに周囲は仰天し、2人はボブとフローレンスのもとに置いていくよう説得を試みたが、スージーの意志は固かった。

33歳の誕生日から数日後の1979年末、2人の息子を連れたスージーは、スーツケース2つだけを持って台湾に到着する。
しかしながら、台湾での生活は予想外に厳しかった。汚染された空気。非衛生的な住環境。時間に追われる日々。白人が珍しいのかジロジロと露骨に見られることも不愉快だった。2月に入るとジムが気管支炎を患い、2月末にはジョンが肺炎にかかり、入院が必要になった。スージーまで体調を崩し、3人で一緒に病院のベッドに眠った。医療費という予想外の出費のため資金が乏しくなったところに、3月21日、スージーの父方の祖父の訃報が届く。追い打ちをかけるように、今度はジムが肺炎にかかった。入院や病院通いのため、スージーは中国語のクラスについていけなくなり、下のクラスに替えてもらった。が、そこでも学習ペースについていくのに苦労する。打ちのめされたスージーはとうとう帰国を決意、息子2人と6月25日に台湾を離れた。

乗り継ぎのためシカゴの空港に降り立った時、3人は思いがけずデロレスに迎えられた。デロレスは3人に会うため、わざわざ自宅から車を運転して来ていた。ランチをおごり、乗り継ぎ便に搭乗する3人をデロレスは手を振って見送った。「あの時はスージーが私に会って心から嬉しそうだった唯一の機会だったわ」と、後にデロレスは周囲に語った。
帰国した3人に会いに来たシャープ判事にジムは、「僕、もう二度と台湾には行きたくないよ」。
ひどくやつれた様子のスージーを家族は心配し、クレナー医師の診察を受けさせた。医師は言った。「スージーは多発性硬化症を患っているが、心配する必要はない。私が面倒を見るから」。
そうしてスージーは、頻繁にクレナー医師の診療所に通うようになる。


   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


スージーの伯母アニー・ヒルの夫であるクレナー医師が質素なビルの2階に診療所を開いたとき、町民の反応は冷ややかだった。
「南部の町に来た北部人」「カトリック教徒」「あのシャープ家の、招かれざる婿」。
だがクレナー医師は、まず警察官や消防士、役人や薬剤師などを無償で診察・治療することによって迅速に人々の信頼を獲得した。診察時の丁寧で誠実な態度、診察料を払えない患者の支払いは払えるまで待ってくれること、診察料が未払いでも必要とあれば往診して診てくれること、などがクレナー医師の評判を徐々に高めていった。
唯一の欠点といえば、クレナー医師がヒットラーやKKKを公然と支持していることだったが、それも患者に忠告されてからやめるようになった。

彼は広範囲の病気の治療に膨大な量のビタミンCを使うことに興味を持ち、自らを実験台にして研究を続けた。実際ポリオが流行した時、身体麻痺や高熱などの症状を持った子供をビタミンCによって「治した」こともあった。また彼は1946年5月に、一卵性の4つ子を取り上げた。4つ子の体重は1人が3ポンド(1.4kg)強、残る3人は約2ポンド(900g)ずつしかなかった。スポイトからミルクを吸わなければならないほど弱々しい4つ子に、クレナー医師はビタミンCを血管注射する。「生き延びた」4つ子の話題とクレナー医師の「功績」は一年後に医学誌に取り上げられた。そうして彼の説は次第に世間の注目を浴びるようになった。が、クレナー医師の治療法を「まだ実験段階」と疑問視する声も多く、医学界では彼は『異端児』とみなされた。
ビタミンCの大量投与で難病を治すという噂を聞き、遠方からも藁をもすがる思いの患者が、クレナー医師の診療所にやって来るようになった。診療所は大繁盛し、看護師だった妻のアニー・ヒルも診療所で夫を手伝うようになった。

           
               診療所の入口と、クレナー医師                           妻アニー・ヒルと。

クレナー医師の息子のフリッツ・クレナーは、1952年7月31日に生まれた。娘2人しかいなかったクレナー医師は、44歳にしてようやく男の子に恵まれ大喜びする。立派に育った息子が自分と同じく医学を志し、将来跡をついでくれることを、クレナー医師は熱望した。
射撃と武器収集が趣味だったクレナー医師は、赤ん坊のフリッツが座れるようになるやいなや、おもちゃの銃を与えた。山のふもとに土地つきの農場を持っていた彼は、余暇時間にはよくそこに出掛けて射撃の練習をした。フリッツは10歳の時に初めて本物の銃を与えられ、後には父親と一緒に射撃の練習をするようになる。そうしてフリッツは、父親をはるかに凌ぐ武器マニアになっていく。
クレナー医師は自宅を聖域と考え、外部の人間に立ち入られるのを好まなかった。フリッツも、学校に通うようになってからでさえ友達を作らないよう奨励され、自宅か裏庭で孤独に一人遊びをした。近所の人々はクレナー一家を「エキセントリックで秘密主義でちょっと変わっている」と思った。

フリッツは父親を尊敬し崇拝し、父親と同様ヒットラーやKKKを支持するようになり、父親を喜ばせることを常に、心から、願った。熱心に勉強して医学を志したが成績が及ばず、父親が通ったのと同じ大学に入学できなかった。しかし父親に本当のことが言えず、その大学に入学したと両親に嘘をつく。大喜びの父親は、フリッツのため大学の近くにアパートメントを借りてやり、車を買ってやり、毎月せっせと仕送りをした。実際にはフリッツは、父親が送ってくれたお金を武器の売買に使っていた。フリッツは拳銃、ショットガン、スポーツ・ライフル、軍用武器、ベルギーやドイツの軍用ライフル、ナイフ、弾薬、手榴弾など、多くの武器を購入した。

またフリッツは、まだ免許のない『アシスタントの医学生』として毎週土曜日に父親の診療所を手伝うようになった。
父親同様優しく親切なフリッツは、難なく患者の信頼を得た。

 

《 につづく 》

 

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2 コメント

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ドキドキ。。。 (チビまま)
2012-04-16 23:34:34
おー、bitter bloodの記事、1、2、3とドキドキしながら読んでいます。
どうなっていくのでしょう。。。

ハナママゴンさんは読書がお好きなんですね。
私なんて、最近はほとんど本を読んでいません。駄目ですね。
読書、始めてみようかな~。

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チビままさんへ (ハナママゴン)
2012-04-17 23:04:48
面白いですか? Bitter Blood。 私はあるものが好きになると熱狂してしまう傾向があるので、ひょっとしたらBitter Blood、他の人には別に面白くも何ともないのかな、なんて不安になったりもしています。
だから楽しみにしていただけると嬉しいです 

説明っぽいくどい性格のせいか、せいぜい4~5回で終わると思ったのに、ずっと長くなりそうです。
もうしばらくお付き合い下さいね。

読書は好きですが、私も読まない時は読まないですよ。半年以上一冊も読まない時もあったりして。
面白い本は、一旦読み始めると家事も仕事も放り出して読み続けたくなるから困りものですよね 
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