ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

“イギリスのシンドラー” ②

2015-07-07 18:17:45 | ひと

《  からの続き 》


ウィントンは戦後しばらく国連の国際難民組織を手伝い、次にパリの国際復興開発銀行で働いた。

そこで彼は、秘書をしていたデンマーク生まれで10歳年下のグレーテと出会う。

二人は1948年10月31日に彼女の故郷で結婚し、メイデンヘッドに落ち着き、三人の子供に恵まれた。

(が、うち一人は幼くして死亡。)

ウィントンは企業の経理部門を渡り歩いて生計を立てた。

奉仕活動に関心のあった彼は、知的障害者のための慈善活動に関わり、老人ホームを設立した。

                    

          ウィントンとグレーテの結婚写真           1998年10月、金婚式を迎えたウィントンとグレーテ(両端は孫)

 

 

プラハの子供たちの救助に関する書類は、彼の協力者が、まとめたスクラップブックとともに

「思い出に」 とウィントンに手渡してくれていた。

1980年代に入り、スクラップブックを(いつまでも自分の手元に置いても仕方がない)と考えたウィントンは、

その適切な行き場を求めてユダヤ人団体や歴史研究協会に連絡を取ったが、誰も真の興味を示さなかった。


1988年1月初めにウィントンの叔母が亡くなり、彼女の私物の整理をしていたウィントンは、

妻が最近見つけ出した例のスクラップブックに思いを馳せ、再度その引き取り先を探すことにした。

誰かのアドバイスで歴史研究家のエリザベス・マックスウェルに連絡したのは、またとない適時だった。

ホロコースト研究の真最中で 《未来のための記憶》 と題した会合の準備を進めていた彼女は、

スクラップブックの真の重要性を理解できるうえ、知識も豊かだった。


1988年2月のある日。 グレーテ(68歳)と共に娘のバーバラ(34歳)を訪問していたウィントン(78歳)に、

BBC放送から電話が入った。

例のスクラップブックが日曜夜の人気番組 “That's Life !” で取り上げられることになったので、

情報の正確さや番組の進行を、観客席からウィントンに見ていて欲しいとの要請だった。

ウィントンは承諾し、グレーテは 「退屈そうだし番組ならテレビで見られるから」 と同行しなかった。


2月27日。 観客席の最前列にウィントンが座り、番組が始まり、

プレゼンターのエスター・ランツェンがスクラップブックとその内容を紹介していく。


第二次世界大戦が勃発する直前に、チェコで危険にさらされていた669名の、主にユダヤ人の子供たちが、

辛くも英国に避難できました。 チェコに残らざるを得なかったその親や親類は、ほとんどがナチスによって殺害されました。

しかしながら、救われた子供たちの多くが、どのような経緯を経て助けられたのかを知ることはありませんでした。 ・・・

 

スクラップブック                       子供たちの移民を可能にした“公式”書類     

  

子供たちの受け入れ先を求めてウィントンが作った、子供たちの“カタログ”

  

 

救われた子供たちの名前のリストのページに達したランツェンは言った。

「こちらのヴェラ・ディアマントさん、現在はヴェラ・ギッシングさんとおっしゃいますが、実はここにいらしていただいております。

ヴェラさん、貴女は今、命の恩人の隣に座っていらしゃるんですよ!」


ウィントンの手を取り “Thank you, thank you !” と言うヴェラと、不意打ちに面食らい、喜びながらも懸命に涙をこらえるウィントン。

    

 

番組の制作者たちに “だまされた” ウィントンは、翌週ふたたび番組に招待されたとき、

 《まさかの事態》 に備え、妻のグレーテに同行してもらった。

 

二人は翌週の番組内で起こり得ることはある程度予想していたが、ランツェンが

 「皆さんの中にニコラス・ウィントンによって命を救われた方がいらっしゃいましたら、立ち上がっていただけますか?」

 と観客席に呼びかけ、それに応えて二人を取り巻く周囲の全員が立ち上がったときには、驚きを隠せなかった。

自分が半世紀前に行動を起こさなかったら、現在この世に存在しなかったであろう人々――

「私の人生で、最も感情を揺さぶられた瞬間だった」 とウィントンはのちに語った。


 

(動画はこちら。 2週分が一緒になっています。)

 

ウィントンからスクラップブックを託された、エリザベス・マックスウェル。

彼女の夫は “ミラー” 紙のオーナーでチェコ系ユダヤ人のロバート・マックスウェルだったため、

プラハから来た “子供たち” に、連絡をくれるよう紙面で呼びかけることが可能になった。

彼女はまた、子供たちの受け入れ先に連絡を取り、子供たちの近況を問い合わせることも思いついた。

彼女自身が驚いたことに、200を超える返事があり、うち約80名は英国在住だった。

“子供たち” の多くは、プラハからの列車がどのように手配されたのかまったく知らなかった。

キンダートランスポート(Kindertransportドイツやオーストリアからの子供の移送を可能にした組織活動)が、

同じようにプラハの子供たちも救ってくれたと信じていた者もいた。

マックスウェルがランツェンにスクラップブックをまわしてウィントンの偉業について教え、

返事をくれた “子供” の一部が、“That's Life !” にウィントンが二度目に招待されたときの “観客” になった。

ウィントンのスクラップブックとその他の書類は、現在ヤド・ヴァシェムに保管されている。


ウィントンが救ったのは、8台の列車で英国に到着した669人の子供たちだけではなかった。

彼等が救われたことによりこの世に生まれて来られたその子供たち・孫たち・そして曾孫たちを含めると、

その数は現在6,000人に上ると推定されている。 (15,000人とする情報源も。)

そしてその数は、今後も増え続けていく。


ウィントンの偉業が知れ渡って、ウィントンとその妻グレーテの生活は一変した。

メディア慣れしていなかった二人にとって、それはかなりのストレスだったかもしれない。 が、

自分の行為がもたらしたポジティブな結果を目の当たりにしたウィントンは、心から喜んだ。

   

 

なぜ自分の偉業を半世紀近くも秘密にしていたのか? と問われたウィントンは、こう答えている。

「秘密にしていたわけではありません。 ただ、誰にも話さなかっただけです。 家族にも話さない事柄というのはたくさんあります。

戦争前に起きたことは、戦争そのもののあとでは全然重要に思えなくなったのです。

私は特別な人間ではありません。 “必要” があったので、それを満たした。 できることをしたまでです。」

 

ウィントンは1983年に、老人ホーム設立という地域奉仕が認められてMBE勲章を受章していたが、

チェコの子供たちを救った功績により2003年にナイト爵に叙され、“Sir” の称号を得た。

ロンドンのリバプール・ストリート駅のキンダートランスポートの記念碑の除幕にも招待された。

  

 

 2009年9月1日、プラハ中央駅の1番線のホームで、ウィントンの功績を記念する彫像がお披露目された。

70年前に、ウィントンの9番目の列車が出発するはずだったその日。

“ウィントン列車(The Winton Train)” が、ロンドンに向けてプラハ中央駅を発車した。

170名の乗客のうち22名が “ウィントンの子供たち” で、残りはその子孫だった。

 

ドイツとオランダを旅した列車は、フェリーで英仏海峡を渡り、

9月4日にリバプール・ストリート駅で、当時100歳のウィントンに迎えられた。

 

都合で “ウィントン列車” の乗客になれなかった人々は、ウィントンに会うためリバプール・ストリート駅に集まった。

 

 

2010年9月。 ウィントンが結婚以来住んできたメイデンヘッドの駅に、ウィントンの像が設置された。

ベンチに座り、ウィントン列車について読む像のウィントン。

  

  

2010年には首相官邸に招待され、“ホロコーストの英雄” 勲章を贈られた。

 

2014年5月の、ウィントンの105歳の誕生日。

チェコ大使館に招待された彼は、チェコで最高の栄誉である白ライオン勲章(Order of the White Lion)を授与されるとの報せを受ける。

お祝いに駆けつけたアルフ・ダブス上院議員(下右写真・左)は、ウィントンに命を救われた子供のうちの一人だった。

ダブスの父親は、ナチスがチェコに進軍したその日にイギリスへと逃れていて、

当時6歳のダブスはウィントンが手配した列車で英国入りし、リバプール・ストリート駅で父親に迎えられた。

母親が作ってくれたお弁当に手をつけられなかったことを、彼ははっきり覚えている。

その母親も、その後まもなく無事イギリスに入国した。

「プラハ駅を、今でもよく覚えている。 子供たち、親たち、かぎ十字をつけた兵士たち。

オランダに入ったとき、年長の子供たちが喝采をあげた。

ナチスから無事逃れられたからだったが、私には意味がわかっていなかった。」

“That's Life !” で自分の命の恩人がウィントンだと知ったダブスは、

その後ウィントンの功績が評価されるようキャンペーンを展開し、2003年のウィントンの叙勲に一役買った。

 

ウィントンの娘のバーバラは、父親の105歳の誕生日に合わせて彼の伝記を発表した。

 タイトルは、 “ If it's Not Impossible...

これは、ウィントンのモットー “If something is not impossible, then there must be a way to do it.” からきている。

自分の伝記を書く娘に、ウィントンがひとつだけつけた注文は、「英雄崇拝を煽る内容には決してしないこと」 だった。


「これを読んだ人が、『私にはできっこないこと。 どのみちこんな英雄が必要だったのは、はるか昔の戦時中のことだし。』

と思うだけなら、父はがっかりするでしょうね。 でも 『現在だって、世界は正しくないことで溢れている。 私は私のやり方で

できることをする』 と考え実行してくれるなら、父はこの上なくハッピーになるでしょう。」

 

 

ウィントンの偉業は、映像化されている。 1999年の All My Loved Ones と、

エミー賞を受賞した2002年のドキュメンタリー The Power of Good: Nicholas Winton と、

2011年のドキュメンタリー・ドラマ Nicky's Family だ。

ウィントンも出演した、キンダー・トランスポートを題材にした2000年のドキュメンタリー

Into the Arms of Strangers: Stories of the Kindertransport は、

ドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞している。

   

ウィントンは、2014年4月27日に放映された米CBS放送の 60 Minutes にも出演した。 視聴はこちら

 

 2014年10月28日。 娘のバーバラに付き添われ、チェコ政府が用意した特別機でプラハに到着したウィントンは、

ミロシュ・ゼマン大統領から白ライオン勲章を授与された。

 

 

 

 ウィントンは、長寿の秘訣を 「良い遺伝子と活動的であり続けること」 としていた。

103歳のときに人工股関節置換術を受けたが、手術前に 「万一心臓が止まったら、蘇生して欲しいか否か」 を訊かれると、

信じられないといった面持ちでこう答えたという。 「もちろん蘇生してもらうよ! ワシゃまだ生きたい!」

  

 「父が104歳になったとき、冗談半分に言ってみたの。 『毎年パーティーというのは、ちょっと大変すぎるわよねぇ?』 と。

すると父は言ったわ。 『どれが最後になるかわからんからな、パーティーは毎年開くさ』 って。」 と、娘のバーバラ。

 

 

今年5月19日、ウィントンは  106歳の誕生日を迎えた。

 

  7月1日朝。 バーバラと二人の孫が付き添う中、眠っていたウィントンはそのまま還らぬ人となった。

76年前のその日、ウィントンが手配した列車のなかでは最多数の241人の子供を乗せた列車が、プラハを発った。

彼の訃報を聞いた人々により、プラハとロンドンの記念碑にキャンドルや花が供えられた。

 

 

 

 「私の命は(シンドラーと違って)一度も危険にさらされたことはなかった」 し、

「プラハでサポートしてくれたチームの方が、ずっと大きな危険にさらされていた」 のだからと、

ニコラス・ウィントン自身は、自分が英雄視されたり “英国のシンドラー” と呼ばれることに乗り気ではなかったという。


自らがユダヤ系のため、ウィントンはオスカー・シンドラー杉原千畝のように

諸国民の中の正義の人” と称せられることもない。


でも彼の決意と行動がなかったら、多くの命が歴史の闇に、推定犠牲者数の一部として葬られていた。

ウィントン氏は、大きな達成感に包まれて天国に旅立ったと思いたい。


 

今頃は、1999年に亡くなった奥様に、天国でねぎらいの言葉をかけてもらっているかな?

 

お疲れさまでした。 そして、ありがとう。

 

貴方が何と言おうと、貴方はやっぱり、ヒーローです!

 

 

 《 おわり 》

 

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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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今晩は♪ (望月)
2015-08-09 00:08:00
またまた拝見させて頂きました。この方は、最近テレビで放送されてまして存じ上げた方でした。色々な詳細がわかり感動しました。そしてありがとうございました。
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そうですか! (ハナママゴン)
2015-08-09 01:56:40
日本のテレビでも紹介されたんですね、ウィントン氏の偉業。
私も何とな~く聞いたことがあっただけだったので、今回詳しく知られて良かったです。
コメントありがとうございました。 ブログを続ける励みになります!
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