ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

俳優マイケル・J.フォックス

2012-08-26 19:29:10 | エンターテインメント

映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(1985年)で世界的に有名になったハリウッド・スター、マイケル・J.フォックス

カナダのアルバータ州の生まれで、演技に興味を持ったマイケルは、15歳のときにカナダのテレビ・シリーズにデビューした。 俳優になる夢を抱いて18歳のときにロサンゼルスに移る。 TVで端役を得たあと、人気シリーズ『ファミリー・タイズ』(1982-1989年)のアレックス・キートン役に起用されて一気に知名度が高まる。

『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(BTTF)のマーティ・マクフライ役の第一候補は、マイケルだった。 が、BTTFのプロデューサーが『ファミリー・・・』のプロデューサーにマイケルの出演を打診したところ、プロデューサーは「マイケルは『ファミリー・・・』で忙しくて時間が割けない」と、出演を断る。 そこでBTTFは、第二候補だったエリック・ストルツを使って撮影を開始した。 

2010年3月、ディズニーランドにて、マイケルと家族。 左から妻、20歳の息子、8歳の三女、マイケル、双子の長女と次女(14歳)。

 1985年5月に公開される予定だったBTTF。 1984年のクリスマス前になって、マイケルは『ファミリー・・・』のプロデューサーに呼ばれた。 「僕、クビになるんですか?」とマイケルが訊くと、BTTFの脚本を手にしたプロデューサーは説明した。 7、8週間前にBTTFのマーティ役にマイケルが望まれていたこと、「忙しすぎるから」と勝手に断ったこと、別の俳優を使ってBTTFの撮影が始まったが、ロバート・ゼメキス監督はその俳優はミスキャストだったと感じ、再度マイケルが望まれていること。 『ファミリー・タイズ』とBTTFの撮影を、マイケルは同時にこなせるか? ・・・マイケルはもちろん、一も二もなく引き受けた。 

BTTFの製作予算は1400万ドル。 エリック・ストルツを使って撮影した5週間分をマイケルを使って撮影し直すとなると、300万ドル余計にかかってしまう。 が、ストルツの演技はドラマティック過ぎてユーモアに欠けたため、マイケルの本質がマーティ・マクフライに近いことを見抜いていたゼメキス監督は、マイケルにこだわったのだった。 ストルツ自身も自分はマーティ役に向いていないと感じていたため、降板に問題はなかった。 ちなみにドク役も、第一候補はジョン・リスゴーだった。 が、リスゴーのスケジュールの都合がつかず、クリストファー・ロイドが起用された。 

     エリック・ストルツのマーティは、  こちらでチラ見できます。

『ファミリー・タイズ』とBTTFの撮影のかけもちで、マイケルの超多忙な数ヶ月が始まった。 日中は『ファミリー・・・』の撮影。 午後6時になるとスタジオを飛び出し、BTTFの撮影セットに移動し、午前2時3時まで撮影。 毎晩数時間しか睡眠時間がなく、BTTF撮影中は「いつも半分眠ったようで、意識が朦朧としていた」とマイケルは自ら告白している。 BTTFの試写会があった時、マイケルはロンドンで『ファミリー・タイズ』のホリデー版を撮影中だった。 試写を見たエージェントから電話を受けたマイケルは、真先に謝った。 「ごめん・・・ 次はもっとうまく演じるよ」 エージェントは言った。 「違う、誤解してるよ。 あれは、この夏最大のヒットになるぞ!」  BTTFの全米公開は、1985年7月3日。 7月半ばにアメリカに戻ったマイケルは、映画の大ヒットに驚嘆した。

今年初め、カリブ海でホリデーを楽しむマイケルと妻で女優のトレイシー・ポラン。

  

1990年、映画『ドク・ハリウッド』撮影時に、指の痙攣が始まる。 痙攣は指から手、腕、肩へと広がり、翌年、29歳の若さでパーキンソン病と診断された。 「俳優として活動できるのは、あと10年ほど」と警告もされた。 インタビューでその時の気持ちを訊かれたマイケルは、こう言っている。 「セメントの靴をはいて道路の真中に立った自分に、バスが突込んでくるような気分だった。 逃げなきゃ轢かれるのがわかっているのに逃げられない。」 診断後、しばらくは酒に溺れた。 「それまでも酒は好きだったが、何も感じたくなくて飲んだのはその時が初めてだった。」 

「診断から一年ほどしたある朝、酔いつぶれて寝ていたソファーで目が覚めた。 トレイシーが僕を見ていた。 彼女の顔には、悲しみ・怒り・失望といった、予想されるべき表情はなく、ただただ退屈しきったという顔をしていた。 『これ、本当にあなたがしたいことなの?』 彼女に訊かれ、即座に思った。 違う。 こんな状態、望んじゃいない。 こんなのは自分じゃない。 それで1992年に酒を断った。 酒に逃げるかどうかが自分の選択であると同様、パーキンソン病についても自分で選択できると気がついたんだ。 病気については自分で何もできなくとも、他にできることがあるぞ、ってね。 パーキンソン病のおかげで目が覚め、それまでより良い夫、良い父親、良い人間になれたと思う。」

ドイツのカール・ツァイス社の顧客用に限定製作された2011年のカレンダーに、ドイツ人トップモデル、タチアナ・パティッツと登場したマイケル。 タチアナの身長は180cm、マイケルは163cm。 ちなみに撮影したのは、カナダのミュージシャン兼カメラマンのブライアン・アダムス。

 

 

(あはは~! コミカルでいいですね~!   ところでブライアン・アダムスの“(Everything I Do) I Do It For You”は、本当に名曲です・・・

薬でパーキンソン病の症状を抑えながら、その後も映画やテレビ出演を続けた。 1998年のある日。 TVシリーズ『スピン・シティー』(1996-2002年)を撮影中、楽屋の床に転がって症状が治まるのを待たねばならず、撮影に遅れてクルーやキャストに迷惑をかけてしまった。 自分がパーキンソン病にかかっていると知ったら、周囲はどう思うだろう。 笑い者にされるだろうか。 仕事は続けられるだろうか。 周囲の反応が怖くて発病を公表できなかったマイケルだったが、「もう隠しておけない」。 公表に踏み切った。 彼を笑い者にする代わりに、周囲は彼を、絶大な支援で包んだ。 

2000年『スピン・シティー』を降板、パーキンソン病の治療に専念するため俳優活動を休止する。 しかしその後も折に触れてテレビにゲスト出演し、ファンを喜ばせてきた。 一方でパーキンソン病の研究を推進するため、『マイケル・J.フォックス パーキンソン病リサーチ財団』を2000年に設立した。 

病院コメディー『スクラブ』、法律事務所が舞台のコメディー『ボストン・リーガル』、弁護士ドラマ『グッド・ワイフ』にゲスト出演したマイケル。

  

 そしてつい先日、朗報が入った。 薬のおかげで症状が落ち着いているため、マイケルがTVシリーズに復帰することが発表されたのだ。 全22話のコメディードラマで、ニューヨークが舞台。 マイケルが演じるのは、家庭と仕事とパーキンソン病をやりくりする3人の子供の父親という、本人そのものに近い役柄。 題名は未定。 この秋撮影に入り、放映は来年の秋とのこと。

  

            

 

・・・ BTTFは、私の最も好きな映画のひとつ。 公開された1985年の秋、私は最初に勤めた会社を辞めて、ドイツ・ミュンヘンに3ヶ月の短期“遊学”をしていました。 8週間だけ通った私立のドイツ語学校。 前日BTTFを見てきた美人のペトラ先生が、「本当に素敵な映画だったわぁ~」と夢見るような表情で話してくれたのを今でも覚えています。 

私が一番好きなシーンは、30年前に戻ったマーティがカフェで当時の父親を見つけるシーン。 不良グループにからかわれ、ボスに宿題を押しつけられと、やられ放題の「この軟弱オトコが父さん・・・!?」といった表情で10代の父親を見つめるマーティが、それは可笑しくて 

       

通常は高齢者がかかるパーキンソン病を、29歳の若さで発病してしまったマイケル。 それも世界的スターになり、前途洋々という時に。 どんなにショックだったことか・・・。 でもそれを乗り越えてパーキンソン病の『顔』となり、知名度を活用して財団を設立。 財団は現在までに、2億9700ドル(231億円!)を集めたそうです。 

私だったら、絶望に潰されてやけになって、自殺すら考えてしまうのでは・・・? そう考えると、マイケルさん、すごい。 離婚・再婚がありふれた世界にありながら、おしどり夫婦でいるのも素敵です。 

これからも病に負けず、元気で頑張って!! 

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ にほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
« ハナちゃんだより (16) | トップ | パラリンピックの父 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

エンターテインメント」カテゴリの最新記事