ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県松本市、波田山城跡(秋葉城)です!!

2018-05-27 06:10:16 | 城跡・館跡・陣屋跡
波田山城跡は、松本市役所の西南西約14kmのところ

若澤寺跡の南側の山頂部に有ります

車を置いたまま林道を歩いて行きます

はた「歴史の遊歩道」案内図では直ぐそこです

では行きましょう

道路脇を水が流れています

なんと倒木で林道が塞がれています、まだ倒れたばかりのようです

水音が消えると城址入口まで100mの案内板があります

もうすぐです

入り口が近付いて来ました


説明版です
  町指定史跡(昭和47年11月1日指定)
    波田山城跡(秋葉城)
      標高970.5m  比高差240m(登り口より)
    波田町上波多光明寺峰にある山城跡は南北に細長い山頂の
   尾根を「堀切」にした深さ約5mの「竪堀」でそれぞれの郭
   に分割造営されている。中央の本城(主郭)が最も高く、次
   いで北城、南城と南北に横並びで連立している。各城郭の山
   腹には3段から4段の「帯郭」が取り囲み、「腰郭」、馬溜
   りの平場も作られている。
    本城(主郭)は南北の長さ約44m・東西の幅8m~16
   mの長方形で、四方の縁は「土塁」がめぐらされている。南
   寄りに「井戸の跡」と呼ばれる窪みが有り、昔は水が湧き出
   していたという。
    本城の中央に秋葉神社の小祠が祀られたことから城の別名
   となった。本城に築かれて土塁の切れ口の一部が「虎口」と
   呼ばれる郭の出入口で、直下には5mの四角形の「馬出」ら
   しき平場が設けられている。なお北城と南城には土塁は作ら
   れていない。山城の大手筋は北城から北尾根を下り、寺山水
   道沢から、「御殿城」(町浄水場)附近を経て上波多集落の
   内城(西光寺城跡)に出る道筋が大手道とみられる。
    「搦手筋」は、、城の南側の沢道に下り水沢川沿いの若澤
   寺参道(大木戸)にでるのが搦手である。
中世豪族の武将と家臣団が日常生活を営む場所は山城の山
   麓の根城(内城・根小屋)であり、山城は「詰城」として、
   平時は物見番を置き、非常時に避難して戦闘に使用したとい
   う組合わせが一般的である。したがって装備も質素なもので、
   後世の城郭のような壮麗な天守や瓦屋根に白壁等はなく、粗
   末な板張りの山小屋に萱ぶきか桧皮ぶきの屋根で、丸太の物
   見やぐら、城門、矢倉、板塀、木柵などが施され、空堀の土
   を掻き揚げた城郭であった。
    山城には15世紀以降の室町から戦国時代に発達した「竪
   堀」の工法や「馬出」などの施設がみられる。伝承によれば
   文化年間(1804~17)に近くの若澤寺造営の際、山城
   の石垣を取り壊し使用したともいわれ、石垣は戦国末の工法
   である。「波田町誌」によれば寛正3年(1462)ごろに
   守護小笠原氏の一門櫛木市正一俊が波多郷地頭となり正光寺
   内城と、波田山城を築き、飛騨・木曽方面の境を固め、対岸
   の西牧氏(梓川村)に備え、子息紀伊守政盛まで2代在城し
   たといわれている。
    戦国時代には小笠原長時の旗本波田数馬が城主であった。
   武田氏に敗れた後は、甲州の深志城代日向大和守により天文
   21年(1552)に山城と内城は破却されている。



こちらは搦手口ですね、本城へ向かいましょう

登り始めて直ぐ右手に「秋葉城趾」の小さい石碑があります

木の階段で急な登城路を進みます

登城路の左手の山腹には平場が段々に繋がっています

大きな腰郭です、「馬溜まり」でしょうか

もうすぐ本城です、竪堀の脇を登って行きます

北城との間の「堀切」です

本城西側の切岸と腰郭です

本城に上がって来ました

町指定史跡 波田山城跡の標柱です

中央部には祠が有ります「秋葉神社」でしょうか

井戸跡のようです

掘り切りの先は南城です

南北に細長い本城です、南側から見ました

本城北側の腰郭です

北城です、戻りましょう

良く整備されていますので、むやみに歩き回らずに保存していきたいものです

では、次へ行きましょう

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