明智町は、平成16年(2004)10月25日に旧恵那市と恵那郡の岩村町、山岡町、串原村、上矢作町と合併によって〈新〉恵那市が発足しました
明智町(宮町)は、恵那市役所の南約18km、恵那市役所明智振興事務所の北東約600mに八王子神社が西南西参道で鎮座します
恵那市役所明智振興事務所の東側の県道11号線を北へ
約500mの「明智駅前」信号を右(東)へ

八王子神社前に出ました
駐車場がないので、少し戻った「日本大正村」(観光施設)の駐車場に
車を止めさせて頂きました(恵那市観光協会もこちらをおすすめしています)

「金幣社 八王子神社」社號標です
ここからが前回からの続きです

拝殿前北側に目的の「明智光秀公手植えの楓」です

説明版です
柿本人麻呂社・明智光秀公手植えの楓
八王子神社は、天暦3年(949年)に創建された、千年の歴史をもつ由緒ある神社です。
社殿や、明智城の大手門を移築したとされる唐門(破風には丸の二つ引両の紋)、明智光秀公の先祖である源頼光公の羅生門図の絵馬など、多くの岐阜県重要文化財が残されています。
また、この境内には、百人一首で有名な万葉集の歌人、柿本人麻呂公を祭神とする柿本人麻呂社が祀られています。
伝承によれば、文武を志す明智光秀公が、学問所には天神神社を、八王子神社には柿本人麻呂社を祀り、社前には紅葉(楓)を植えたと伝えられています。
この社殿の破風には、明智氏の家紋である桔梗紋は彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂公の画像が祀られています。
明智光秀愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」。歌人としても才覚をみせた明智光秀公の原点がここにあります。

東側から



西側から

幹の根元にはサルノコシカケ科のキノコが生えていました

楓の直ぐ北側に「柿本人麻呂社」です

脇に説明版です
明智八王子神社(949年創建)
彫刻「麒麟」の由来
明智城(土岐明智城)の落城(1556年)で明智十兵衛光秀は、叔父土岐光安(後に遠山景行と改名)の計らいに寄り嫡男光春をお供に越前朝倉氏に落ち延びた。
その後、織田信長に仕え、絶える事の無い戦乱の世を治めるべく「平の世が来れば麒麟が現われる」と平穏の世を願い、信長と共に天下統一を目指した。
光秀末裔となる明智遠山氏4代伊次が世継の安寧と平の世を願い八王子神社再建時(1676年)、奥殿に麒麟の欄間を掲げた。(彫刻は3枚の内の1枚)

社殿北側に境内社が並んでいます、西側から「熊野三所大権現」の社です

「春日大明神」です

「八幡大神」です

「神明」です

由緒書きが有ります、御祭神は「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」です

さらに祠が並びます、左から式座神社・天神神社・若宮八幡神社・稲荷神社・諏訪神社・軍神神社です

石祠も並んでいました



杉の木が密植されています

札が設置されています
巨木 大杉
*幹が茂り結び、根を張り広がり、絆を深める処。
*縁結び子宝・夫婦円満、年輪を重ね気持ちを伝える、特別な処。
*積み重ねた気持ちの伝わる処。
金幣社 八王子神社



南側から見ました
では、次へ行きましょう

2025・3・2・11・05 2025/03/14 15:49:13
明智町(宮町)は、恵那市役所の南約18km、恵那市役所明智振興事務所の北東約600mに八王子神社が西南西参道で鎮座します
恵那市役所明智振興事務所の東側の県道11号線を北へ
約500mの「明智駅前」信号を右(東)へ

八王子神社前に出ました

駐車場がないので、少し戻った「日本大正村」(観光施設)の駐車場に


「金幣社 八王子神社」社號標です

ここからが前回からの続きです


拝殿前北側に目的の「明智光秀公手植えの楓」です


説明版です
柿本人麻呂社・明智光秀公手植えの楓
八王子神社は、天暦3年(949年)に創建された、千年の歴史をもつ由緒ある神社です。
社殿や、明智城の大手門を移築したとされる唐門(破風には丸の二つ引両の紋)、明智光秀公の先祖である源頼光公の羅生門図の絵馬など、多くの岐阜県重要文化財が残されています。
また、この境内には、百人一首で有名な万葉集の歌人、柿本人麻呂公を祭神とする柿本人麻呂社が祀られています。
伝承によれば、文武を志す明智光秀公が、学問所には天神神社を、八王子神社には柿本人麻呂社を祀り、社前には紅葉(楓)を植えたと伝えられています。
この社殿の破風には、明智氏の家紋である桔梗紋は彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂公の画像が祀られています。
明智光秀愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」。歌人としても才覚をみせた明智光秀公の原点がここにあります。

東側から




西側から


幹の根元にはサルノコシカケ科のキノコが生えていました


楓の直ぐ北側に「柿本人麻呂社」です


脇に説明版です
明智八王子神社(949年創建)
彫刻「麒麟」の由来
明智城(土岐明智城)の落城(1556年)で明智十兵衛光秀は、叔父土岐光安(後に遠山景行と改名)の計らいに寄り嫡男光春をお供に越前朝倉氏に落ち延びた。
その後、織田信長に仕え、絶える事の無い戦乱の世を治めるべく「平の世が来れば麒麟が現われる」と平穏の世を願い、信長と共に天下統一を目指した。
光秀末裔となる明智遠山氏4代伊次が世継の安寧と平の世を願い八王子神社再建時(1676年)、奥殿に麒麟の欄間を掲げた。(彫刻は3枚の内の1枚)

社殿北側に境内社が並んでいます、西側から「熊野三所大権現」の社です


「春日大明神」です


「八幡大神」です


「神明」です


由緒書きが有ります、御祭神は「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」です


さらに祠が並びます、左から式座神社・天神神社・若宮八幡神社・稲荷神社・諏訪神社・軍神神社です

石祠も並んでいました




杉の木が密植されています


札が設置されています
巨木 大杉
*幹が茂り結び、根を張り広がり、絆を深める処。
*縁結び子宝・夫婦円満、年輪を重ね気持ちを伝える、特別な処。
*積み重ねた気持ちの伝わる処。
金幣社 八王子神社



南側から見ました

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