浄瑠璃町は、松山市役所の南南東約11km、松山市役所久谷支所(荏原公民館)の南約2kmのところに浄瑠璃寺が有ります
松山市役所久谷支所東側の県道207号線を南へ進みます
約1kmの「国道33号線・高知・久万高原町⇨」の標識に従って信号を右(西)へ
約500mの「46番札所浄瑠璃寺・47番札所八坂寺・県道194号線」の標識で信号を左(南東)へ
約600mで「浄瑠璃寺駐車場右へ⇨」の案内板を斜め右上へ入って、浄瑠璃寺北側の
駐車場に入りました

県道194号線に面して東向きに浄瑠璃寺参道入口です

入り口脇に正岡子規の「永き日や 衛門三郎 浄瑠理(璃)寺」の標柱です
*衛門三郎は、四国八十八カ所霊場巡礼遍路そして逆打ちの祖とされる方です
*詳しくはこのブログの2024年7月12日の「 徳島県神山町、下分地中「杖杉庵(じょうしんあん)のイチョウ」です!!」で確認ください

鐘楼です



参道右手にイブキです

説明版です
イブキ 3本
松山市指定天然記念物
昭和43年10月25日指定
和名、イブキ。ヒノキ科ビャクシン属の植物で、別名イブキビャクシンとよばれ多くの品種・変種がある。
福島県以南の海岸地方や島に多く自生しており、園芸品主が多く、公園・庭園に植栽されることも多い。
この境内にも3本のイブキの大木がある。これらの大きさは、それぞれ胸高幹囲4.8m、3.5m、3.2mあり、高さは約20mあって、樹齢は1000年くらいといわれている。残りの2本は本堂裏にある。
このほか、市内では上野町大宮八幡宮内に金平狸が住みついていたという伝説で有名な幹周5.2mもあるイブキがある。
松山市教育委員会



西側から



南側から、根元には「籾大師(もみだいし)」と石仏が並びます

手水舎です

隣には親子亀の手水鉢です

本堂です

説明版です
浄瑠璃寺
四国八十八か所46番札所である。医王山浄瑠璃寺、本尊は薬師如来である。
寺伝によると、和銅元(708)年、僧行基が開山、自ら白檀の木で本像をつくったという。
室町末期、荘原城主の平岡通倚が病み苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。
その後、正徳5(1715)年に山火事で建物、本尊すべてが焼失したという。
江戸時代中期、この村の庄屋井口ヶ家から仏門に入り、当寺の住職になった堯音(1732~1820)が寺を再興したと伝えられている。
堯音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、76歳で托鉢僧となった。
各地を回り喜捨を集めた堯音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。
今も、丹波橋、出口橋など、堯音がかけた8本の橋の名の幾つかが伝えられている。
松山市教育委員会

本堂前にはソテツの大木です
大師堂の写真が撮れていませんでした<m(__)m>

納経所で御朱印を頂きました
では、北西側約1kmの「47番札所八坂寺」へ行きましょう

2025・4・13・15・25
松山市役所久谷支所東側の県道207号線を南へ進みます
約1kmの「国道33号線・高知・久万高原町⇨」の標識に従って信号を右(西)へ
約500mの「46番札所浄瑠璃寺・47番札所八坂寺・県道194号線」の標識で信号を左(南東)へ
約600mで「浄瑠璃寺駐車場右へ⇨」の案内板を斜め右上へ入って、浄瑠璃寺北側の


県道194号線に面して東向きに浄瑠璃寺参道入口です


入り口脇に正岡子規の「永き日や 衛門三郎 浄瑠理(璃)寺」の標柱です

*衛門三郎は、四国八十八カ所霊場巡礼遍路そして逆打ちの祖とされる方です
*詳しくはこのブログの2024年7月12日の「 徳島県神山町、下分地中「杖杉庵(じょうしんあん)のイチョウ」です!!」で確認ください

鐘楼です




参道右手にイブキです


説明版です
イブキ 3本
松山市指定天然記念物
昭和43年10月25日指定
和名、イブキ。ヒノキ科ビャクシン属の植物で、別名イブキビャクシンとよばれ多くの品種・変種がある。
福島県以南の海岸地方や島に多く自生しており、園芸品主が多く、公園・庭園に植栽されることも多い。
この境内にも3本のイブキの大木がある。これらの大きさは、それぞれ胸高幹囲4.8m、3.5m、3.2mあり、高さは約20mあって、樹齢は1000年くらいといわれている。残りの2本は本堂裏にある。
このほか、市内では上野町大宮八幡宮内に金平狸が住みついていたという伝説で有名な幹周5.2mもあるイブキがある。
松山市教育委員会



西側から




南側から、根元には「籾大師(もみだいし)」と石仏が並びます


手水舎です


隣には親子亀の手水鉢です


本堂です


説明版です
浄瑠璃寺
四国八十八か所46番札所である。医王山浄瑠璃寺、本尊は薬師如来である。
寺伝によると、和銅元(708)年、僧行基が開山、自ら白檀の木で本像をつくったという。
室町末期、荘原城主の平岡通倚が病み苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。
その後、正徳5(1715)年に山火事で建物、本尊すべてが焼失したという。
江戸時代中期、この村の庄屋井口ヶ家から仏門に入り、当寺の住職になった堯音(1732~1820)が寺を再興したと伝えられている。
堯音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、76歳で托鉢僧となった。
各地を回り喜捨を集めた堯音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。
今も、丹波橋、出口橋など、堯音がかけた8本の橋の名の幾つかが伝えられている。
松山市教育委員会

本堂前にはソテツの大木です

大師堂の写真が撮れていませんでした<m(__)m>

納経所で御朱印を頂きました

では、北西側約1kmの「47番札所八坂寺」へ行きましょう


2025・4・13・15・25
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