湯沢地区は、村山市役所の西約9kmのところ
県道25号線を西へ県道294号線を更に西へ最上川を碁点橋で渡って、すぐ南へ県道294号線を道なりに進みます、国道347号線を過ぎると湯野沢地区に入ります
市道を道なりに進んで富元小学校の手前で左斜めの道へ入ります院内溜池の南を西側の山の中へ入って行きます、間もなく参道入口です、鳥居前に車を止めさせて頂きました
*一度上がって来たのですが、カメラの電池が心配だったので少し戻って確認し大丈夫だったので戻ろうとしたところに、スバルインプレッサが上がって来ました、私も院内溜池のところでユーターンして上がって行きました、また鳥居前で車を止めて参道を登り始めて、写真を取りながら参道を進みました
参道入口の鳥居です
郷社 熊野神社です
境内社は「湯殿大神」の祠です
参道を進みます
二の鳥居です、元は下の町の中に建っていた一の鳥居だったものを道路拡張のため平成9年にこちらへ移したそうです
参道の両側に祠が有ります、まずは「貴船大神」です
「月山大神」です
参道の曲がり角外側に「愛宕大神」です
石段が続きます
「八幡大神」です
「北野大神」天神様でしょうか
「稲荷大神」です
参道脇、スギの大木が境内端に立っています
境内側から
拝殿手前から参道の三の鳥居を振り返りました
国 登録有形文化財「湯野沢熊野神社」標柱です
参道右側の手水です
狛犬です
拝殿です
軒下の説明版が有ります
郷社 熊野神社
山形県村山市大字湯野澤院内楯樋山鎮座
神紋 山桜 三つ巴左 御神木八本
御祭神 武速須佐之男命 伊雅那美之命
合祀神 春日大神 八幡大神 稲荷大神 月山大神
祭日 御例祭 春6月25日 秋9月25日
縁起沿革
奥州平泉藤原氏滅亡後、後鳥羽天皇の御代、建久年間(1194~)紀伊の人三郎なる者この地に来襲し、当村楯に館を備え、四囲に近在の住民を移住させ、領主となり楯樋山中腹に己が信仰する熊野大神を祀り、且つ熊野三郎と名のる。
また、牛ヶ首地楯に 館を築き田野を開拓す。時に諸数、紀伊国熊野山より分霊を瓶に納め懐手に奉持して山中に鎮め、杉を神罹として植え勧請したのが始まりと伝える。
依って承元元年6月(1207)平朝臣友康宝殿を建立した。鎌倉時代は楯に北条被官地頭代官屋敷があり、当社は北寒河江在河西 郷の総鎮守で、社領150石を寄進されていた。
南北朝時代は北朝方に味方し、楯樋山に詰城を築き北寒河江左西かたを領有し南朝方と戦った。
山形斯波兼頼が入部し出羽管領覧利満直時代に 中条氏が入部し南朝方が敗走した。
明徳2年6月(1391)平朝臣長盛は戦勝を記念して、熊野神社宝殿を再建した。
天正13年熊野三郎友重は因島十郎と共に最上義光と戦い滅亡したが、江戸初期の慶安2年(1649)新庄初代藩主の奥方を尼将軍といわれた天慶院によって宝殿を再建され、新庄藩主の祈願社谷地郷の総鎮守となり、明治8年郷社に列せられた。
本殿です
社殿左に目的の「おくまん様のスギ」ですが・・・手前の一本は枯れてしまっています
「おくまん様の大スギ(二号)」ですが御覧の通り枯れてしまっています
二号のスギの標柱です
*インプレッサの男性からお話を伺いました、
台風19号で幹が折れて、枝が2本ほどしか残らなかったそうです、境内の木々も倒れたりしたようです、その処理の為ユンボで整理作業をしていた時に、残っていた枝を折ってしまったようです、その後1年ほどで枯れてしまったようです
左奥境内から少し下がって「おくまん様の大スギ(一号)」です
一号のスギの標柱です
本殿脇から、幹の先端が折れてしまっているようですが、目通り幹囲7.2mの巨木です
社殿右側の境内端に「おくまん様の大スギ(三号)」です、一号・二号に比べるとまだまだ若いようです
三号スギの標柱です
社殿脇から見ました
北側のスギの大木です
境内東側のスギの大木を見ました、左から二本目が三号の大スギです
では、次へ行きましょう
県道25号線を西へ県道294号線を更に西へ最上川を碁点橋で渡って、すぐ南へ県道294号線を道なりに進みます、国道347号線を過ぎると湯野沢地区に入ります
市道を道なりに進んで富元小学校の手前で左斜めの道へ入ります院内溜池の南を西側の山の中へ入って行きます、間もなく参道入口です、鳥居前に車を止めさせて頂きました
*一度上がって来たのですが、カメラの電池が心配だったので少し戻って確認し大丈夫だったので戻ろうとしたところに、スバルインプレッサが上がって来ました、私も院内溜池のところでユーターンして上がって行きました、また鳥居前で車を止めて参道を登り始めて、写真を取りながら参道を進みました
参道入口の鳥居です
郷社 熊野神社です
境内社は「湯殿大神」の祠です
参道を進みます
二の鳥居です、元は下の町の中に建っていた一の鳥居だったものを道路拡張のため平成9年にこちらへ移したそうです
参道の両側に祠が有ります、まずは「貴船大神」です
「月山大神」です
参道の曲がり角外側に「愛宕大神」です
石段が続きます
「八幡大神」です
「北野大神」天神様でしょうか
「稲荷大神」です
参道脇、スギの大木が境内端に立っています
境内側から
拝殿手前から参道の三の鳥居を振り返りました
国 登録有形文化財「湯野沢熊野神社」標柱です
参道右側の手水です
狛犬です
拝殿です
軒下の説明版が有ります
郷社 熊野神社
山形県村山市大字湯野澤院内楯樋山鎮座
神紋 山桜 三つ巴左 御神木八本
御祭神 武速須佐之男命 伊雅那美之命
合祀神 春日大神 八幡大神 稲荷大神 月山大神
祭日 御例祭 春6月25日 秋9月25日
縁起沿革
奥州平泉藤原氏滅亡後、後鳥羽天皇の御代、建久年間(1194~)紀伊の人三郎なる者この地に来襲し、当村楯に館を備え、四囲に近在の住民を移住させ、領主となり楯樋山中腹に己が信仰する熊野大神を祀り、且つ熊野三郎と名のる。
また、牛ヶ首地楯に 館を築き田野を開拓す。時に諸数、紀伊国熊野山より分霊を瓶に納め懐手に奉持して山中に鎮め、杉を神罹として植え勧請したのが始まりと伝える。
依って承元元年6月(1207)平朝臣友康宝殿を建立した。鎌倉時代は楯に北条被官地頭代官屋敷があり、当社は北寒河江在河西 郷の総鎮守で、社領150石を寄進されていた。
南北朝時代は北朝方に味方し、楯樋山に詰城を築き北寒河江左西かたを領有し南朝方と戦った。
山形斯波兼頼が入部し出羽管領覧利満直時代に 中条氏が入部し南朝方が敗走した。
明徳2年6月(1391)平朝臣長盛は戦勝を記念して、熊野神社宝殿を再建した。
天正13年熊野三郎友重は因島十郎と共に最上義光と戦い滅亡したが、江戸初期の慶安2年(1649)新庄初代藩主の奥方を尼将軍といわれた天慶院によって宝殿を再建され、新庄藩主の祈願社谷地郷の総鎮守となり、明治8年郷社に列せられた。
本殿です
社殿左に目的の「おくまん様のスギ」ですが・・・手前の一本は枯れてしまっています
「おくまん様の大スギ(二号)」ですが御覧の通り枯れてしまっています
二号のスギの標柱です
*インプレッサの男性からお話を伺いました、
台風19号で幹が折れて、枝が2本ほどしか残らなかったそうです、境内の木々も倒れたりしたようです、その処理の為ユンボで整理作業をしていた時に、残っていた枝を折ってしまったようです、その後1年ほどで枯れてしまったようです
左奥境内から少し下がって「おくまん様の大スギ(一号)」です
一号のスギの標柱です
本殿脇から、幹の先端が折れてしまっているようですが、目通り幹囲7.2mの巨木です
社殿右側の境内端に「おくまん様の大スギ(三号)」です、一号・二号に比べるとまだまだ若いようです
三号スギの標柱です
社殿脇から見ました
北側のスギの大木です
境内東側のスギの大木を見ました、左から二本目が三号の大スギです
では、次へ行きましょう
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