ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

栃木県那須烏山市、森田城跡です!!

2018-03-07 05:51:24 | 城跡・館跡・陣屋跡
森田城跡は、那須烏山市役所の南南西約4kmのところ

市貝町との境近くの山の上に有ります

薬師堂のカヤから南へ、荒川を渡ると案内板が有ります

更に南へ、荒川の支流を渡って進むと芳朝寺が有ります

駐車場を利用させて頂きました


案内板が有ります

正面に見えてきた山の上に森田城跡があります

入口山門です、山門の右手に駐車場が有ります

六地蔵様です

本堂です

駐車場脇の説明版です
  森田城跡(南那須町森田字今宮台)
   城跡は荒川の右岸で、丘陵上に立地している。
  城の前後は荒川が蛇行しており、要害となってい
  る。
   城跡は、丘陵上部から麓にかけて利用した山城
  で、複郭式である、郭内の大きさは、南北経約1
  80m、東西経約110mで、本丸を中心として
  周囲に郭を設け、空堀、土塁、竪堀を築いている。
   文治3年(1187年)に那須資隆の長男太郎
  光隆がこの地を分知され、森田城を築いて居住し
  以来森田氏を称した。

山門の左手から森田大田原氏の墓碑があります

行って見ましょう

石段が出来ています

本は虎口の様な場所の様です

石塔が並んでいます

説明版です
 那須烏山市指定文化財
  大田原氏累代の墓碑
       (平成4年6月4日指定)
  慶長5年(1600)、大田原城主網清の次子増清が
 関ヶ原の戦いの功績により森田村などを与えられ、小塙
 に陣屋(森田陣屋)を築き、以後同所を累代の居館とし
 ました。
  芳朝寺は、那須太郎光隆が森田に分地された際、字石
 原の地に建立されたと言われています。光隆の法名を「
 大雲芳朝居士」と号したことから、寺院名は大雲山光隆
 院芳朝寺といいます。
  大田原氏領となってからは同氏の菩提所となり、元禄
 16年(1703)大田原清勝の時、現在地に移転しま
 した。
  初代増清をはじめ大田原氏累代の墓碑が立ち並び、近
 世の歴史を物語る貴重な史跡です。
             平成28年3月
             那須烏山市教育委員会

では、城跡へ行きましょう、竪堀?が城跡への入口です

木の段が造られています

城跡は登り切った左手に有ります

左手にトラバース気味に登ります

登った右手には、本丸下のからぼりです

本丸への土塁を登ります

虎口の様です

本丸です

説明版です
 森田城跡(今宮台城・龍崖城)
        南那須町字今宮台
   森田城跡は丘陵頂部から麓にかけての地形を利用し
  た複郭式の山城である。城跡は今宮台と呼ばれるとこ
  ろに立地していることや、城の前後を荒川が蛇行して
  おり、要害となっていることから、今宮台城や龍崖城
  とも言われている。
   郭内の大きさは、南北経約180m、東西経約11
  0mで、山頂に本丸を構築し、周囲に腰郭を廻らして
  いる。また、その周囲に二重ないし三重の土塁で空堀
  を設け、竪堀を築いている堅固な構の城である。
   築城者は、那須資隆の長男太郎光隆で、文治3年(
  1187年)にこの地を分知され、森田城を築いて居
  住し、森田氏を称したという。以来、那須十氏の一つ
  森田氏累代の居城となるが、天正18年(1590年
  )豊臣秀吉により改易され、廃城となった。
               南那須町教育委員会


本丸内は、東屋があり笹の刈り払いがされていました


低い土塁が確認できます

北側の腰郭です

北西側の眺めです



説明版の後側の土塁の上には祠が在ります

では、次へ行きましょう

   

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