ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県坂戸市、石神神社入西のビャクシンです!!

2015-06-10 06:29:10 | 巨樹・大木
石神神社は、坂戸市役所の西約3km、高麗川左岸の若宮中学校に北西側にあります

県道39号線の北峰信号を南へ入った左手の住宅地の中にあります


神社前に駐車場がありますが入りずらいので注意が必要です

鳥居です

階段を上がると手水舎です

社殿です


立派な彫り物があります


社殿の前に有るのがビャクシンです

説明版があります
  ねじれっ木 石神様の 大びゃくしん(坂戸市文化かるた)
   樹高十二メートル、幹回り約三。五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから
  「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いた
  と伝えられています。
   ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉喬木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。
   昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当寺の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付
  けられました。
   ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。現に湯河
  原の成願寺、北鎌倉に建長寺、川口の長徳寺などに見られます。
   入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧・乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。乾峰士雲は、
  文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。
   現在、この地は、石神神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。
   成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となる
  と考えられます。
   入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の上人としても生き続けているのである。
      平成二十五年二月                        坂戸市教育委員会


東側から

全景です



幹のねじれがきれいです


倒れないように支えられています

根元の天然記念物指定の標識です

石上神社の由来の石碑です
   石上神社の起源については詳らかではないが、木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵国
  入間郡三芳野の里大塚村言い古墳を氏神塚として尊崇してきたが、嘉元二年(一三〇二)の頃氏神塚の下の
  川の渕の中より漁師の手網に再三掛かった石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによ
  って石明神としたものであると記されて居る、後に川の流を南に変えその跡へ広伝寺が移り来って石神明神
  の別当職となり栄えたが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ
  「これによって三芳野天神堂宇尽く焼失せり」云々とあり再来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒され、
  その為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云う言葉が生まれる程であったと
  云う、これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたも
  のが石上明神である事は明らかであると指摘して居る。拝殿正面の掛かる「石上宮」の神号額は全徳寺第七
  世國水伝春が明和四年(一七六七)揮毫し篆刻奉納したものである。文化六年(一八〇六)坂戸宿棟梁高山
  兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた、何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には、
  近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云う。
   大正五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槇の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年
  本殿覆殿の根継ぎを行いたるも拝殿の破損著しく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の
  誠意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手
  依って昭和五十三年十月竣工したものである。    昭和五十五年(一九八〇)四月   氏子中

豊臣秀吉の小田原攻めの時、八王子城攻めに向かう、前田・真田・上杉軍の通り道だったのかもしれませんんね

では、次へ行きましょう
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