2000年末に台湾に行った。台湾へはこの一度しかないが、そこでいろいろ考えさせられた。そこで考えたことは今も古くはなってはいないと思うので、ここに掲載する。
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(1) 昨年末台湾に行った。静岡県に生をうけた一人の日本軍兵士・中谷が、1930年10月、台湾中部の深い山の中、先住民たちが起こした日本人襲撃に始まる事件(霧社事件)に関わっていたことがわかり、その「現場」を見に行ったのである。
台湾は初めての訪問であった。朝鮮人強制連行、「在日」の歴史などを研究してきた私は、韓国は何度も訪問した。その朝鮮半島(韓国)と比べると、台湾は大きく違っていた。ともかく台湾には「日本」がいっぱいであった。車はトヨタ、ニッサン、ホンダなどが走り回り、三越、高島屋などのデパートがある。コンピュータ関連の日本商品が店先に並び、各地のセブンイレブン(本当にたくさんあった!)に置いてある菓子類は、ほとんどが日本製である。そして、植民地支配の象徴である鳥居が今以て残存していた(朝鮮半島ではあり得ない)。
朝鮮と台湾のこの違いは、植民地にされる前の状況、植民地化の契機の正当性の問題、民族的抵抗のあり方、植民地支配のあり方、そして戦後の歴史など、様々な要因があろう。
しかし私は、ここで、その違いの理由を書こうとは思わない。そうではなく、ある種の共通性を描こうと思うのだ。それは「戦後」についての、私たちの認識の問題、フレームの狭隘性が、認識すべきことを認識させてこなかったのではないか、という問題群である。
(2)戦後、韓国や中国に関わる情報は、数多く流されている。少なくとも台湾よりずっと多いはずである。戦後の日台関係がきわめて強い絆で結ばれていたにもかかわらず、である。現在でも、台湾を訪れる外国人の4割が日本人で、日本を訪れる外国人の第一位が台湾人であること、輸出入についても日本は台湾の最大の輸入相手国、台湾は日本の第二の輸出相手国、であるという(柳本通彦『台湾革命ー緊迫!台湾海峡の21世紀』集英社新書)ほどに、関係は深い。しかし台湾認識は弱いのだ。
戦後の台湾について、なぜ情報が少ないのだろうか。台湾は、韓国・北朝鮮ともども、日本の植民地であったのに、なぜかくも差があるのか。その理由として、「一つの中国」問題があるのだろう。
(3)日本の植民地であった台湾は、日本の敗戦とともに中国国民政府により接収され、大陸から中国人が入ってきた(その時の、引き上げていくきちんとした日本兵と、上陸する中国兵の「みすぼらしさ」との対比は、本省人がよく語るところである)。その後中国本土における国共内戦に敗れた国民党・政府関係者などが多数逃げ込み、台湾は日本統治時代からの「本省人」(もちろんその中には先住民も含まれる)と、中国本土から「戦後」やってきた「外省人」とによって構成されることとなった。戴國煇『台湾ー人間・歴史・心性』(岩波新書)によると、当時の人口(本省人)約560万人のところへ、「外省人」が約200万人が入ってきたという。そしてその「外省人」は、ただ単に入ってきただけではない。まさに「統治者」として入ってきたのである。
中国大陸に「中華人民共和国」が成立してから、台湾は「中華民国」として、蒋介石・国民党政府が独裁的な支配権を掌握してきた。「中華民国」は国際連合の常任理事国としてあったが、1971年「中華人民共和国」が国連に加盟すると同時に「中華民国」は脱退。また1972年に日本と「中華人民共和国」との間で国交が回復すると、台湾とは国交断絶となるなど、台湾は国際的には孤立状態にあった。そのためか、1998年に日本のマスコミの支局が開設されるまで、台湾にかんする情報はほとんど提供されてこなかったのである。
(4)しかしである。もし情報がたくさん入ってきていたなら、私たち日本人の関心は台湾にむかっていたであろうか。答えは、否、というしかない。それは、韓国・朝鮮の例をみれば明らかであろう。
敗戦直後から南北に分断された朝鮮半島、朝鮮戦争の勃発、そして「南」の独裁政権による抑圧的な政治(朴正煕政権など)、低賃金・長時間労働で苦しむ韓国労働者、その象徴としてあった抗議のための焼身自殺事件、そして光州事件など、韓国の人々には、私たちが、日本国憲法などの民主主義的諸制度や経済成長など、肯定的かつプラスイメージで想起する「戦後」はなかったのだ(もちろん、日本帝国主義の植民地支配からの解放=光復はあったから、全く否定的というわけではない)。
韓国が抑圧的な政治体制からほぼ解放されたのはまさに80年代であり、南北分断に至っては解決にはまだまだ多くの時間をかけなければならない状態にある。他方北朝鮮は、金日成、金正日体制のもと、民主的な制度からはるかに隔たったところにあり、食糧難などもあり、今もって庶民は苦しみのなかにある。
そのような韓国・北朝鮮の姿を知りながら、私たちはどのような関与をしてきたのだろうか。情報はたくさんあった。韓国・北朝鮮の苦しみは報道されてはいた。しかし、日本は、日本の人々はどのような関与をしてきたのであろうか。
(5)台湾はどうか。台湾の多数をしめる「本省人」の状態はどうであったのか。台湾では1949年5月20日から1987年7月15日までの長期間、戒厳令のもとにあった。
日本の植民地のもとで「帝国臣民」とされてきた人々が、日本の敗戦と同時に「日本国民」ではないとされ、大陸から来た戦勝国=「中華民国」に支配される。もちろん、日本による支配が終わったことに、人々は「光復」を覚えた。しかしその後は、1947年2月28日の「2・28事件」(「本省人」と「外省人」との衝突事件。事件後多くの「本省人」が弾圧され、殺害された)を経て、「本省人」は、世界的な「冷戦」体制の下、蒋介石・蒋経国による抑圧的な支配に耐えて生きていかざるを得なかったのである。
侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」は、1945年から1949年にかけての台湾全体の歴史の推移が、どのように一家族を翻弄していったのかを、淡々と描く。そこでは、家族の構成員が、歴史の渦に巻き込まれながら、一人ずつ消えていくのだ。日本帝国主義による植民地支配の終焉が、即台湾の人々に幸せをもたらしはしなかったのである。
私が台湾で会った人々(「本省人」)は、平穏な生活が到来したのは李登輝以降だ、と語る。やっと自分たちの歴史が始まる、というのである。
(6)これら韓国、台湾の状態についての日本の関与は、経済的発展の支援(といってもその発展は同時に日本の経済発展につながる)と抑圧的な政治体制の擁護であった。また日本の経済界も、低コストを求めて企業進出を強化してきた。また台湾に関しては、旧日本軍による「中華民国」軍隊の養成が特記されるべきであろう。
もちろん、韓国の民主化闘争については、日本の良識的な人たちによる支援などが行われていた。しかし台湾については情報はあまりに少なかった。多くの日本人の脳裏には、旧植民地の人々のことを思いやることなど、ほとんどなかったのである。
(7)日本で「もはや戦後ではない」と言われたのは、1956年のことである。朝鮮戦争やヴェトナム戦争などアジアの戦争を「肥やし」として発展してきた経済大国日本、その国民として、私たちはその豊かさを享受してきた。そして一定の民主的な制度のもとで、自由などを謳歌してきた。「戦後」に生まれてよかったという感懐もある。
だが、1945年までわが国の植民地として支配されていた朝鮮、台湾などの人々について、私たちは情報を集め、どのように生きているのか、に思いを馳せたことがあるのだろうか。
戴國煇は、正当にもこう記している。「植民地化の目的は、もちろん植民地利潤をあげること、南進基地を台湾に確保することなどにあった。あらゆる植民地政策と台湾での投資や施設は、日本帝国主義への奉仕にこそ置かれても、台湾に居住する被植民地側の人びとのためを考えたものでないことは、自明のことだ」(前掲、p.146)と。この言説は、朝鮮に対する植民地支配にも妥当する。「南進基地」を、「北進基地」ないしは「対中侵攻の基地」とすればよい。
私たちが、植民地支配を本当に「清算」すべきであったと考えるなら、戦後に於いても旧植民地の人々の生活に思いを馳せるべきであった。日本は、戦時下、帝国主義的侵略をカモフラージュするため表向き「大東亜共栄圏」などと叫んでいたのに、戦争が終わればそのようなことばすら思い出すこともなく、「自国のことのみに専念」するようになった(戦時下の「大東亜共栄圏」がそれこそ虚妄であったことは、「戦後」の日本のあり方をみれば一目瞭然である。「大日本独栄圏」とでも名付ければよかったのだ)。
(8)日本国憲法にはこうある。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
私たち「日本国民」は、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」をしてきたのだろうか。ただ単に「憲法を守れ!」と唱えるだけではなく、私たちは具体的な行動を起こすことが必要であったのだ。道義的には、私たち「日本国民」が、旧植民地をはじめ、日本帝国主義が支配した地域について、その後の状況につき情報を収集し、関心を示し、人々の生活のありように思いを馳せるべきだったのだ。
(9)日本では「戦後」という期間は、もう55年にもなる。「戦争」から半世紀が経過して、抑圧的な政治体制からやっと解き放たれたアジアの人々が、「戦後」に私たちが享受してきたものを、やっと享受できるようになってきた。
朝鮮にも、台湾にも、日本国憲法はなかった。私たちには、日本国憲法のなかの平和主義や人権尊重などの普遍的な原理を、日本国内だけではなく、旧植民地、アジア、そして世界へと広げていくこと、「戦後」を日本国だけのものではなく、名実とともに普遍性をもったものとしていくことが要請されていたのだ。朝鮮でも、台湾でも、80年代に「戦後」が始まったばかりなのである。