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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

大杉榮のこと(4)

2020-09-17 07:33:38 | 大杉栄・伊藤野枝
大杉栄の思想を紹介していく。

 大杉の思想や行動の根本には、今、実際に生きているみずからのこの生を、どこまでも拡充させていくという強い意志があった(「生の拡充」)。

 運動には方向はある。しかし所謂最後の目的はない。一運動の理想は、其の所謂最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動其者の中に在るのだ。運動其者の中に其の型を刻んで行くのだ。
 自由と創造とは、之れを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づ之れを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ。
 自由と創造とを吾々自身の中に獲(え)るとは、即ち自己の自己である事を知り、且つこの自己の中に、自己によつて生きて行く事を知るの謂である。
・・・・・・・・
 自由と創造とは、吾々の外に、又将来にあるのではない。吾々の中に、現に、あるのだ。
(「生の創造」、1914年、『全集』2)

 未来に理想社会を夢見る者は、理想社会ができたら・・・という思考を持ちやすい。未来に希望を託し、今はそのための手段とみる。あるいは理想社会ができていないのだから、今は我慢しよう、と考える。あくまでも理想社会は、彼岸のことなのだ。

 ところが大杉は、そうは考えない。今生きているこの現在、現時点において、まさにここに、理想(社会)を刻印していくのだと考えた。

 となると、当然自らを包囲し、それを妨げるものと闘っていかなければならない。生の拡充には、叛逆の精神が付随する。

 自我は活動と反省とによって、これを捕捉し発育せしめることができる。そして吾々はまず、この捕捉し得たる自我をして、その固有の性質たる自由と創造とを、自由なる思索と行動とを、その為し得る一切の方面に働かさねばならぬ。
 かくして吾々は、はじめてそこに、自我と周囲との峻烈なる闘争を見るのである。新人の恐るべき努力を見るのである。
 この努力と闘争とのないところに、自我の真の発展は見出され得ない。自我の強大はこの努力と闘争との仲にのみ求められべきものである。自由と創造との理想の信仰には、人格の鍛錬には、必ずこの闘争の野を経なければならぬ。
 しかも今日の如き、ほとんだあらゆる社会的制度が、自我の圧迫と破壊とにつとむる場合において、自我の向かうところは、これ等の社会的諸制度に対する叛逆のほかはない。
(「生の創造」、1914年、『全集』2)

 みずからを取り囲む社会的制度その他が、自我のみならず生そのものを圧迫し破壊してこようとするとき、それに叛逆しなければ生の創造はあり得ないのである。(続く)




【本】P・クロポトキン『ある革命家の思い出』上(平凡社、2011年)

2020-09-17 07:33:38 | 
 いつか読もうと思って傍らに置いておいた本である。寝付きの悪い私は、横になって本を読み、眠くなるのを待つというのが日課になっている。
 この本が目についたので横になって読みはじめたのだが、これが面白く、またとても知的な内容であることがわかった。
 昨日読みはじめて今日上巻を読み終えた。下巻もまた読まなければならない。

 クロポトキンは、アナーキストである。しかしその出自は、ロシアの貴族である。それも公爵家であるから、かなり地位も高く、クロポトキンは上級貴族の子弟しか入れない「近習学校」の学生となり、皇帝の周辺に侍る一人であった。広大な土地と農奴を所有し、経済的に裕福で、クロポトキンは知的な環境のなかで育った。クロポトキンもその兄も、賢く、探究心も旺盛で、また反骨精神も持っていた。知的に成長していく過程が具体的に記されてる。

 どのようにクロポトキンが「近習学校」で学習していったのか。多くは学問的にレベルの高い先生が、それぞれの学科の専門性に即した効果的な学習法を提示している。そこには、教育に従事する人は教える内容につき高い学識をもつことが必要であると示唆されている。
 クロポトキンは書いている。

 あらゆる学問研究の魅力というものは、それがたえず私たちの目のまえに新しい、まだ理解されていない未知の地平線をくりひろげてみせ、はじめて見たときにはぼんやりとした輪郭しかわからなかったもののなかへ深くつきすすんでいくように誘いかけるところにあるのではないだろうか?(105頁)

学校のなかで、それぞれの先生はみなその専門とする科目をうけもっているが、これらの科目と科目の間にはなんの脈絡もない。ひとり文学の先生だけは、だいたいは教授要領に従いはするが、それを自分の好きなように扱っていく自由をもっており、個々独立の歴史人文科学を結びつけたり、もっと広い哲学的な思想でそれを統一したりして、青年たちの理性と感情の中により高い理想と情熱を目ざますことができるのである。ロシアでは、この欠くことのできない仕事は自然にロシア文学の先生の手にゆだねられることになった。ロシア文学の先生がロシア語の発達、古代叙事詩の内容、民謡や音楽、さらに近代小説、ロシアの科学・政治・哲学文献、ロシア文学のなかに反映しているさまざまな美学・政治・哲学思潮などを語ろうとするときには、どうしてもばらばらに教えられている各専門科目の枠を越えた人間精神の発展について一般的な概括を行わないわけにはいかなくなるのである。(107頁)

 日本の学校には、そういうものがない。できるだけそういうものを消し去ろうとしているのが文科省である。残念ながら、「青年たちの理性と感情の中により高い理想と情熱を目ざます」ことを阻止したい、それが文科省の教育行政なのである。

 彼は「近習学校」をおえた後、シベリアに行く。そこで行政に携わるのだが、そこで学んだことは、

 行政機構という手段によっては、民衆のために役にたつようなことはなにひとつとして絶対にできなということをまもなく悟った。(252頁)

 であった。アナーキストとなる要素は、ここで育てられたようだ。

 ではどうするか。

 「集中したたくさんの意志のきびしい努力」、「共通の理解にもとづく一種の共同体的な方法でその仕事をおしすすめなければならない」。「命令と規律」ではうまくいかないのである。(254頁)

 私は赤鉛筆を持って、同感したところや、重要だと思うところに線を引いていくのだが、本書は赤線がたくさんであった。

 本書を読んでいて、ゲルツェンという人物を知った。その人の本も注文した。

 ロシアという国家は好きではないが、しかしそこに住む人々、また文学者・詩人や音楽家のことを思うと、素晴らしい「くに」(country)だと思う。

 長い間農奴制に苦しんだロシアの農民たちは、「権力には簡単に屈するが、それを崇拝はしない」(128頁)。日本の庶民はどうなのだろうか。


 




何度もここに書いてきたことだけれど・・・・

2020-09-17 07:33:38 | 社会

私は舛添さんが指摘することを、何度もここに書いてきたが、何も変わらない。政治が政治をしていないからだ。『大辞林』は。「政治」を  「①  統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。 ②  国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整することにもいう。 」 自民党・公明党政権は、官僚と一緒になって、「利害の対立の調整」をせずに、一心不乱に自己利益の追求(カネ、地位、名誉・・)をしているだけだ。
 日本国民の多くはそれをなぜか支持し続けている。私は絶望のただなかにいる。