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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

生き方

2020-09-29 22:18:35 | 社会

 人間は自分自身を確認するためには、他者を必要とする。他者の中に映し出される自分を感じ、あるいは他者の反応の中に自分自身を確認する。他者とのやりとりのなかで、人間はみずからを形成していく。

 しかしそれは主に思春期である。その頃に一定のアイデンティティは確立するのだが、なかにはそれができずに、つまりアイデンティティが確立しないままに大人になる人がいる。そういう人は、大人になってから自分の周囲にいる人びとの言動にみずからを合わせるような生き方をせざるを得ない。

 おのれを空しくして生きてきた大人は、あるとき、周囲にいる人、あるいはネットの記事、あるいは雑誌などから、おのれの虚しさを埋めてくれる何ものかを得ることがある。「ああこれだ!」というわけである。

 そしてその多くは、案外努力しなくても、簡単に分かることで、複雑さはない。考える必要もない、単純な内容に、「ああこれだ!」と乗っていく。今まで己を虚しくしていたから、真っさらであるが故に、すーっと入り込む。そして思い込んでしまう。

 自分の周囲にいる大人たちも、それを繰り返しているし、自分自身が同じことを語ると彼らは賛意を示してくれる。

 「ああこれだ!」は、ネトウヨが流す、ファクトを無視した、デタラメの言説なのである。

 杉田某は、おそらくそういう大人なのだろう。

「女性はいくらでも嘘」は杉田水脈氏の戦略? “成功”は完全否定しておきたい

 杉田某の存在理由、国会議員としての存在理由は、そうした言説を振りまくことであり、それが期待されて安倍晋三から拾われたのである。杉田はそれを続けるしかない、それ以外には何も期待されない、のである。杉田某も、それ以外のことをする能力は、おそらくない。彼女の顔が、それを表している。

 

 


テレビメディアのネトウヨ化

2020-09-29 13:05:34 | メディア

 今では、ネトウヨがトレンディなのだ。だからネトウヨ的な人物を抜擢すれば、視聴率が上がる時代となっている。

 テレビを見ない私としては、すでにテレビメディアは終わっているという気持を持っている。時たま余所で見ることもあるが、あまりにもつまらなくて、目を向けることはしない。

 時代は、「時流」というものができるとそれにながされながら動いていく。現在はネトウヨの時代。ネトウヨの時代というのは、学問や事実(ファクト)が無視ないし軽視される時代。だからテレビメディアも、それに沿った動きをとる。報道機関としては自殺行為であるが、国家権力も民衆もそれを望む。すべてのテレビメディアがご臨終である。時たま申し訳程度に「よい」といわれる番組を放映するようだが、プラスマイナスは、完全にマイナス。つまり見る価値はないということだ。テレビを見る時間は無駄な時間ということでもある。

 ネトウヨ局アナ・小松靖がテレ朝看板ニュース番組のメインキャスターに! テレ朝の御用化が止まらない、政治部には菅首相との…

 

 


PCR検査とソフトバンク

2020-09-29 12:06:27 | コロナ

 経済活動を本格的に軌道に乗せるためには、PCR検査を広汎に行うこと、それが必要だと私は主張してきた。しかし、他の国のようには、日本政府は検査の拡充にまったく取り組もうとしない。

 PCR検査は3~4万円かかるといわれる。

 PCR検査は、なぜこんなにも高価なのか。政府は検査にはそれだけカネがかかるのだと主張する。しかし実際には2000円以下で可能だという。

 ソフトバンクは、2000円で検査をするという。

森永卓郎さん】「PCR検査、ソフトバンク2000円なのに国は3万円の謎」

 


芥川龍之介の舌鋒

2020-09-29 11:02:59 | 芥川

 「侏儒の言葉」は、鋭い。

「人生」というところには、「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである」という文言がある。なるほどオリンピックは「狂人」の主催であることは間違いがない。彼等「狂人」は、さらにカネが大好きである。競技者は、かれら「狂人」のために、グランドなどでピエロを演じるのだ。

 「或自警団員の言葉」には、「鳥はもう静かに寝入っている。夢も我我より安らかであろう。鳥は現在のみに生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。という意味は悔恨や憂慮の苦痛をも嘗めなければならぬ。」とある。その通りである。だからこそ、吾々は悔恨や憂慮の苦痛につながらないように生きねばならない。時に襲い来る悔恨や憂慮の苦痛を少なくしないと、とても生きていけないからだ。

 「政治的天才」のことば。「古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめものを云うのである。」だが、新自由主義の下、民衆の意志とは無関係に政治が行われる。民衆の意志は無視しても良いというのが現代。そしてまた多くの民衆の意志とは、ただ権力者がやることに賛意を示すこととなっている。「政治的天才」にとっては、もはや「天才」は無用である。

 「危険思想」。「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。」その通りである。すなわちこれは、現実の社会がいかに「常識」が通用していないところであるかの証明である。

 「民衆」。「民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、ー何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。」なるほどその通りである。どうしたら「民衆に愛される」のかは、しっかりと視野に入れなければならない。と書いた芥川、次にはこう書いている。「古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。」と。民衆に働きかけて「愚」に、或いは「賢」にしようとしても、ムダということなのか。

 「事実」。「しかし粉粉たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かということではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。」は、正しい。民衆は体系だった学問や哲学とは無縁に生きている。民衆だけではない。政治家や官僚その他、同じである。日常生活や政治は、学問と切り離されたところで営まれているのだ。

 「可能」。「我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。」確かに。こうしたいと思っても、望み通りにはいかない。出来ることしかできないから、出来ることをしていくだけだ。寂しいことだが。

「芸術」の「又」。「芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。」これも真理である。ということは、美しく見せるためには「一時代の精神的雰囲気或は流行」をきちんととらえなければならないということである。

 「兵卒」。「理想的兵卒は苟も上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまづ理性を失わなければならぬ。」「理想的兵卒は苟も上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。すなわち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。」とあるが、しかし芥川は日本社会を正確に理解しておらぬ。絶対的服従は求められる。がしかし、「兵卒」は責任を負わされる。逆に指揮官の高位にいけばいくほど、責任は追及されない。1945年に終わった戦争でそれが明らかになった。「兵卒」は理性を働かせることなく「上官の命令には絶対に服従」し、結果については絶対に「責任」を負わされる。しあたがって、「兵卒」ほどみじめな存在はない。

「結婚」。「結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。」と芥川は書く。しかし性欲の表れが恋愛であるのだから、要するに調節は出来ないということだ。かくて「不倫」がはびこる。

「自由」。「誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚の底では少しも自由を求めていない。・・・しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、すなわち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。」「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。」

 確かに人びとは自由を持てあましている。とくに男性。退職すると何もすることがなく、テレビばかり見ている。私の友人が70を過ぎてもとの職場でまた働き始めた。私に「みんながうらやましがる。何もすることがないのに、あんたは仕事がやれて幸せだと言われる」と。働くということは、自分の自由を売ることである。私は自由が大好きで、やることはたくさんある。この自由を売ることはしない。本を読み、野菜を育て、花を栽培する。コロナ禍で今はしていないが、旅行も自由に出来る。人びとは自由があってもその使い方を知らない。フロムの「自由からの逃走」はその通りである。自由があるからこそ、芥川龍之介全集を読める。読書の習慣のない人は気の毒だ。本を読めば読むほど、新たな思考が芽生えて、精神も自由になる。

 自由をつかえない人びとが、この社会にはたくさんいる。だから自由を抑圧する「自由民主党」の支持率が高いのだ。

 「文章」。「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」とは、良い言葉だ。芥川はまさにそうして文を書いてきた。私も精進しなければならない。

 

 これで全集第7巻は読了。

 

 

 

 


ダム、ダム・・・

2020-09-29 09:39:22 | 政治

日本の行政は、基本的に「利権」につながる。

ダムも利権である。ダムを造れば土建屋がもうかる。県の職員や国交省の役人もそうした土建屋に天下りできる。

静岡県の西部を流れる太田川。太田川の上流部に太田川ダムがある(周智郡森町)。1970年代初めの七夕豪雨に対する防災用のダムとして建設されたが、そこに利水の機能をつけた。そのほうが国からの補助金を得やすいということだったらしいが、しかし周辺市町は太田川ダムからの上水はいらない。しかし静岡県に押し付けられ、太田川ダムから水を購入している。

 太田川ダムからの水を必要としない浜松市がもっとも多額のカネを払っている。できてから総額100億円(確認していないのでこの数字は?)だったか、ばく大なカネが消えている。

 

 とにかく国交省も静岡県もダムを建設したい。多額のカネが動くし、天下り先も確保できるというものだ。

 日本政府も自治体も、「利権」につながる支出はためらいがない。

球磨川の悲劇を繰り返さないために。なぜ日本の水害対策は「命を守る」視点が欠けているのか?