「侏儒の言葉」は、鋭い。
「人生」というところには、「人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである」という文言がある。なるほどオリンピックは「狂人」の主催であることは間違いがない。彼等「狂人」は、さらにカネが大好きである。競技者は、かれら「狂人」のために、グランドなどでピエロを演じるのだ。
「或自警団員の言葉」には、「鳥はもう静かに寝入っている。夢も我我より安らかであろう。鳥は現在のみに生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。という意味は悔恨や憂慮の苦痛をも嘗めなければならぬ。」とある。その通りである。だからこそ、吾々は悔恨や憂慮の苦痛につながらないように生きねばならない。時に襲い来る悔恨や憂慮の苦痛を少なくしないと、とても生きていけないからだ。
「政治的天才」のことば。「古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめものを云うのである。」だが、新自由主義の下、民衆の意志とは無関係に政治が行われる。民衆の意志は無視しても良いというのが現代。そしてまた多くの民衆の意志とは、ただ権力者がやることに賛意を示すこととなっている。「政治的天才」にとっては、もはや「天才」は無用である。
「危険思想」。「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。」その通りである。すなわちこれは、現実の社会がいかに「常識」が通用していないところであるかの証明である。
「民衆」。「民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、ー何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。」なるほどその通りである。どうしたら「民衆に愛される」のかは、しっかりと視野に入れなければならない。と書いた芥川、次にはこう書いている。「古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。」と。民衆に働きかけて「愚」に、或いは「賢」にしようとしても、ムダということなのか。
「事実」。「しかし粉粉たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かということではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。」は、正しい。民衆は体系だった学問や哲学とは無縁に生きている。民衆だけではない。政治家や官僚その他、同じである。日常生活や政治は、学問と切り離されたところで営まれているのだ。
「可能」。「我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。」確かに。こうしたいと思っても、望み通りにはいかない。出来ることしかできないから、出来ることをしていくだけだ。寂しいことだが。
「芸術」の「又」。「芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。」これも真理である。ということは、美しく見せるためには「一時代の精神的雰囲気或は流行」をきちんととらえなければならないということである。
「兵卒」。「理想的兵卒は苟も上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまづ理性を失わなければならぬ。」「理想的兵卒は苟も上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。すなわち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。」とあるが、しかし芥川は日本社会を正確に理解しておらぬ。絶対的服従は求められる。がしかし、「兵卒」は責任を負わされる。逆に指揮官の高位にいけばいくほど、責任は追及されない。1945年に終わった戦争でそれが明らかになった。「兵卒」は理性を働かせることなく「上官の命令には絶対に服従」し、結果については絶対に「責任」を負わされる。しあたがって、「兵卒」ほどみじめな存在はない。
「結婚」。「結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。」と芥川は書く。しかし性欲の表れが恋愛であるのだから、要するに調節は出来ないということだ。かくて「不倫」がはびこる。
「自由」。「誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚の底では少しも自由を求めていない。・・・しかし自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、すなわち神だの道徳だの或は又社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである。」「自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。」
確かに人びとは自由を持てあましている。とくに男性。退職すると何もすることがなく、テレビばかり見ている。私の友人が70を過ぎてもとの職場でまた働き始めた。私に「みんながうらやましがる。何もすることがないのに、あんたは仕事がやれて幸せだと言われる」と。働くということは、自分の自由を売ることである。私は自由が大好きで、やることはたくさんある。この自由を売ることはしない。本を読み、野菜を育て、花を栽培する。コロナ禍で今はしていないが、旅行も自由に出来る。人びとは自由があってもその使い方を知らない。フロムの「自由からの逃走」はその通りである。自由があるからこそ、芥川龍之介全集を読める。読書の習慣のない人は気の毒だ。本を読めば読むほど、新たな思考が芽生えて、精神も自由になる。
自由をつかえない人びとが、この社会にはたくさんいる。だから自由を抑圧する「自由民主党」の支持率が高いのだ。
「文章」。「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」とは、良い言葉だ。芥川はまさにそうして文を書いてきた。私も精進しなければならない。
これで全集第7巻は読了。