『歴史評論』という歴史科学協議会が発行している雑誌を、学生時代からずっと購読してきた。この雑誌、そろそろ購読をやめようかと思い始めた。
最近は、県内の自治体史も終わり、最近行われている自治体史は、どちらかというと1980年代以降を扱うというものに変わってきている。まさに現代ならぬ、現在史といったところだろうか。
ボク自身も、自治体史編纂のなかで発見された史料をもとに何かを研究するということなら仕事の上だからとやっていくだろうが、自分自身が新たに史料を発掘して何かを研究しようという意欲はなくなっている。その意味では年齢を感じる。
他方、各所から依頼される講座については、人口に膾炙しているテーマについて、みずからのオリジナリティを付け加えながら話すという内容のものが多い。
講座と言っても、テーマはボク自身が設定するのであるが、書庫には今まで読んでいない本も大量にあるし、まったく一般的でない内容を話しても面白くはないだろうし、ということで、人口に膾炙しているテーマをもういちど勉強しなおして、若干の私見を提示しながら話すのである。しかしこれとて、準備にはかなりの時間をかける。ということは、まさに新しい史資料を探して・・・などという時間はないのだ。
そういう時間もなく、意欲もなくなったら、もう「研究者」ではない。
他方、ボクよりも年長の町田の住人は、今以てテレビ(時代劇チャンネル)を横目で見ながら研究を続けている。年長になると、研究から離れる人が多いが、この研究に対する意欲は、いったいどこから生じるのか。
今月号の『歴史評論』の特集は、「伝記・評伝・個人史の作法を再考する」というものだ。成田龍一氏が中心となっている。彼の論文、「「評伝」の世界と「自伝」の領分」を読んだが、最後の永山則夫に関わる記述以外、まったく頭に入らない。他人の書いたものをならべて印象批評をするだけの内容だ。副題に「個人史研究をめぐる断片」とあるが、まさに「断片」をならべただけという感じである。成田氏も、もう歴史研究者ではなく、かなり前から「歴史批評家」となっているような気がする。そういえば、彼の『大正デモクラシー』(岩波新書)も、「大正デモクラシー」期の歴史と格闘したとは思えないようなものだった。
歴史家とは、研究する対象と格闘しながら、あーでもない、こーでもないと思考を重ねるなかで何ものかを生み出す(何らかの歴史について叙述をする)人のことをいうのだろう。町田の住人は、まさにそういう人である。
今ボクがやろうとしていることは、戦後の静岡県の社会運動史、1980年代以降の某自治体の歴史(しかしこれは「歴史」といえるのか?)、そして歴史講座である。すべて依頼された仕事である。ボクに残されているのは、そこにどれだけオリジナリティを出すことができるか、であるが、これだけでは研究しているとはいえないだろう。
研究の最前線に立つ人が読む『歴史評論』は、ボクにはもう必要ないようだ。購読料が切れたところでやめようと思う。ちなみに町田の住人は、研究を続けているのに、そうした雑誌の購読をすべてやめている。
最近は、県内の自治体史も終わり、最近行われている自治体史は、どちらかというと1980年代以降を扱うというものに変わってきている。まさに現代ならぬ、現在史といったところだろうか。
ボク自身も、自治体史編纂のなかで発見された史料をもとに何かを研究するということなら仕事の上だからとやっていくだろうが、自分自身が新たに史料を発掘して何かを研究しようという意欲はなくなっている。その意味では年齢を感じる。
他方、各所から依頼される講座については、人口に膾炙しているテーマについて、みずからのオリジナリティを付け加えながら話すという内容のものが多い。
講座と言っても、テーマはボク自身が設定するのであるが、書庫には今まで読んでいない本も大量にあるし、まったく一般的でない内容を話しても面白くはないだろうし、ということで、人口に膾炙しているテーマをもういちど勉強しなおして、若干の私見を提示しながら話すのである。しかしこれとて、準備にはかなりの時間をかける。ということは、まさに新しい史資料を探して・・・などという時間はないのだ。
そういう時間もなく、意欲もなくなったら、もう「研究者」ではない。
他方、ボクよりも年長の町田の住人は、今以てテレビ(時代劇チャンネル)を横目で見ながら研究を続けている。年長になると、研究から離れる人が多いが、この研究に対する意欲は、いったいどこから生じるのか。
今月号の『歴史評論』の特集は、「伝記・評伝・個人史の作法を再考する」というものだ。成田龍一氏が中心となっている。彼の論文、「「評伝」の世界と「自伝」の領分」を読んだが、最後の永山則夫に関わる記述以外、まったく頭に入らない。他人の書いたものをならべて印象批評をするだけの内容だ。副題に「個人史研究をめぐる断片」とあるが、まさに「断片」をならべただけという感じである。成田氏も、もう歴史研究者ではなく、かなり前から「歴史批評家」となっているような気がする。そういえば、彼の『大正デモクラシー』(岩波新書)も、「大正デモクラシー」期の歴史と格闘したとは思えないようなものだった。
歴史家とは、研究する対象と格闘しながら、あーでもない、こーでもないと思考を重ねるなかで何ものかを生み出す(何らかの歴史について叙述をする)人のことをいうのだろう。町田の住人は、まさにそういう人である。
今ボクがやろうとしていることは、戦後の静岡県の社会運動史、1980年代以降の某自治体の歴史(しかしこれは「歴史」といえるのか?)、そして歴史講座である。すべて依頼された仕事である。ボクに残されているのは、そこにどれだけオリジナリティを出すことができるか、であるが、これだけでは研究しているとはいえないだろう。
研究の最前線に立つ人が読む『歴史評論』は、ボクにはもう必要ないようだ。購読料が切れたところでやめようと思う。ちなみに町田の住人は、研究を続けているのに、そうした雑誌の購読をすべてやめている。