ふるい本だ。1979年刊。著者の甲田氏は富士市の人。富士市の環境を破壊してきた企業や権力と、長年闘ってきた人だ。
田子の浦のヘドロは、富士市の産業である製紙業界が、製紙の過程で出される「毒」や廃棄物を田子の浦にたれ流したものが港湾に蓄積され、水質汚濁は言うまでもなく、悪臭を発し、そして漁業にも被害を与えた。
製紙業は「汚染者負担の原則」を守らず、大気を、川を、海を汚染し続けた。甲田氏は、その被害をまともに受けながら、原理原則に基づき、汚染者を告発し続け、地道な運動を展開してきた。市民や農民、漁民、そして「革新政党」や労働組合による運動は、たとえば富士川力発電の建設計画を撤回させるなど、成果も上げてきた。
しかし、富士市に「革新市長」が誕生した後、「革新政党」や労働組合は、従来のような運動には関わらなくなった。「革新」による市政が誕生しても、事態は一挙には解決しない。たしかに市政は、様々な法令に基づいて行われなければならないし、一方の立場に立って一方的に利害の対立を解決するわけにはいかない。「政治は妥協である」といわれるゆえんである。
「政治は妥協である」。確かにそうせざるを得ない場面が数多く出てくるだろう。だが、「権力は腐敗する」ということばがあるように、たとえ「革新」が市政を掌握しても、「革新」が「腐敗」するということは十分あり得るし、実際にそうした事例をボクたちは過去に見てきている。
甲田さんのような一市民にしてみれば、歯がゆくもあり、期待外れもあっただろう。甲田さんは、そうした「革新市政」を、静かに、豊かな文体で批判する。しかしその背後には、燃える怒りが感じられる。
甲田さんは、いつも原理原則を大切にしている。原理原則と言ってもだいそれたものではない。人間がふつうに生きていくために必要な、過去にあった豊かな自然を取りもどしたいという思いである。この思いは、会社の経営者を除き、人々に共通して存在するものだ。
得てして、政治権力を手中にした者は、そうした原理原則を追いやる。良いとされていた人が、ひとたび権力の中に入ると、人が変わったようになることがある。そうした例を、ボクも見ている。権力は魔物である。良い人を変身させる。周囲の人々に祭り上げられて、どんどん変身させられていく。
原理原則はどこかみえないところに置かれてしまう。
原理原則を大切にしないと、結局は人々に見棄てられる。信用できない、と。「革新」と呼ばれた人々であっても、常にみずからの原理原則を意識していかないと、見棄てられる。
富士市の「革新市政」は、甲田さんのような原理原則からの批判を、きちんと受け止めなかったのではないか。甲田さんのような批判は、ある意味での叱咤激励なのだ。そのように受けとることができなかったことが、甲田さんがこうした本を書く原因となっているのではないか。
「革新」は一度でも原理原則を捨てた動きをすれば信用を失う、しかしその後信用を挽回しようとしてあがいても、人々の信用はなかなか回復できない。「革新」は、政治的な「倫理」に忠実でなければならないのだ。
この本、とてもよい本である。文章も、とてもうまい。
田子の浦のヘドロは、富士市の産業である製紙業界が、製紙の過程で出される「毒」や廃棄物を田子の浦にたれ流したものが港湾に蓄積され、水質汚濁は言うまでもなく、悪臭を発し、そして漁業にも被害を与えた。
製紙業は「汚染者負担の原則」を守らず、大気を、川を、海を汚染し続けた。甲田氏は、その被害をまともに受けながら、原理原則に基づき、汚染者を告発し続け、地道な運動を展開してきた。市民や農民、漁民、そして「革新政党」や労働組合による運動は、たとえば富士川力発電の建設計画を撤回させるなど、成果も上げてきた。
しかし、富士市に「革新市長」が誕生した後、「革新政党」や労働組合は、従来のような運動には関わらなくなった。「革新」による市政が誕生しても、事態は一挙には解決しない。たしかに市政は、様々な法令に基づいて行われなければならないし、一方の立場に立って一方的に利害の対立を解決するわけにはいかない。「政治は妥協である」といわれるゆえんである。
「政治は妥協である」。確かにそうせざるを得ない場面が数多く出てくるだろう。だが、「権力は腐敗する」ということばがあるように、たとえ「革新」が市政を掌握しても、「革新」が「腐敗」するということは十分あり得るし、実際にそうした事例をボクたちは過去に見てきている。
甲田さんのような一市民にしてみれば、歯がゆくもあり、期待外れもあっただろう。甲田さんは、そうした「革新市政」を、静かに、豊かな文体で批判する。しかしその背後には、燃える怒りが感じられる。
甲田さんは、いつも原理原則を大切にしている。原理原則と言ってもだいそれたものではない。人間がふつうに生きていくために必要な、過去にあった豊かな自然を取りもどしたいという思いである。この思いは、会社の経営者を除き、人々に共通して存在するものだ。
得てして、政治権力を手中にした者は、そうした原理原則を追いやる。良いとされていた人が、ひとたび権力の中に入ると、人が変わったようになることがある。そうした例を、ボクも見ている。権力は魔物である。良い人を変身させる。周囲の人々に祭り上げられて、どんどん変身させられていく。
原理原則はどこかみえないところに置かれてしまう。
原理原則を大切にしないと、結局は人々に見棄てられる。信用できない、と。「革新」と呼ばれた人々であっても、常にみずからの原理原則を意識していかないと、見棄てられる。
富士市の「革新市政」は、甲田さんのような原理原則からの批判を、きちんと受け止めなかったのではないか。甲田さんのような批判は、ある意味での叱咤激励なのだ。そのように受けとることができなかったことが、甲田さんがこうした本を書く原因となっているのではないか。
「革新」は一度でも原理原則を捨てた動きをすれば信用を失う、しかしその後信用を挽回しようとしてあがいても、人々の信用はなかなか回復できない。「革新」は、政治的な「倫理」に忠実でなければならないのだ。
この本、とてもよい本である。文章も、とてもうまい。