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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(13)

2020-06-14 08:15:06 | 趣味歴史推論

 調べた5ヶ所の銅山の状況は以下のようであった。  
1. (1)~(4)別子銅山 珪石添加の記録はなかった。
2. (5)備中吉岡銅山の素吹で、珪石の添加操作の記録は見つからなかった。
3. (6)越前面谷銅山 荷吹(素吹)では、珪石の添加操作はなかった。 但し、後工程の鈹吹で流れ出た境炉滓(さかいからみ)を、焼鉱あるいは生鉱に添加している。この境炉滓の添加理由は、一つは熔けやすくするためであり、一つはリサイクルして、含まれていそうな銅分の回収であろう。操業者には、珪石の代わりに添加しているという意識はなかったと推定する。喜多村は、「面谷の鉱石は、蛍石・方解石等を包含するために素吹での鎔解は容易であって、そのため生鉱(焙焼なし)を鎔解することが多い」と記している。この表現から、鉱石中の脈石(CaO分が多く含まれている)が融剤となっており、意図して珪石を添加する操作はしていないと推測できる。
4. (7)摂津多田銅山 素吹では、珪石の添加操作はなかった。銅鉑(主に黄銅鉱)の場合は、銅焼鉑だけで素吹した。
5. (8)(10)(11)尾去沢銅山 安永5年9月改(1776) 素吹、真吹に珪石の添加操作はなかった。 素吹では、鍰板7枚(推定10貫目)を添加していた。早く熔けやすくするためであろう。選鉱で細粒となった鉑を粘土水でこねて団子状にして焙焼しており、意図せずして大量の珪石分(SiO2分)を素吹床に仕込んでいたことになる。
まとめると
1. 素吹、真吹で珪石の添加操作はなかった
2. 越前面谷銅山、尾去沢銅山の素吹では、鍰が添加されていた

考察
文化元年(1804)頃に書かれた鼓銅図録では 素吹や真吹で「鉄分を鍰にして除く」ことを意味することは書かれていない。また鉄分と珪石が反応して鍰を作ると思わせる記述はない。 
鼓銅図の素吹では「焼きたる璞(鉑)石を炉の中にて炭火を用いて鎔化し、「滓(どぶ かす)」を流し去り鈹をとるなり。」とある。鼓銅録の素吹では「風火の力到り、鎔化して窪みに満つるに及び、その「土滓(どぶ)」軽く浮び、津々然として槽道に流注し、出るに随って冷結す」とある。鼓銅図の真吹では「」、間吹では「」とあり、鼓銅録の真吹では「滓、土滓」、間吹では「土滓」である。このように、すべてにおいて、鉄分を含んだ物とは記していない。また珪石がこの土滓形成に必要だとも書いていない。
生鉑を砕いてできる限り脈石を取り除いて選鉱した鉑に、今更10wt%もの珪石を加える勇気があったろうか。また必要であったであろうか。1) 選鉱してもくっついている脈石の7割は石英や雲母など主に珪石(SiO2)を主成分とするものである。十分な量だったのではないか。
鉄や珪石の分析技術がなかった時代には、「鉄分と珪石が反応して鍰となる」と推測できていなかったのではないか。素吹すれば、高温で不要な鉱石脈石がうまいこと反応して熔融物の「土滓」となり、都合よく除けると理解していたのではなかろうか。
 ただ、この土滓(鍰)は融点が低いのでこれを少し添加しておけばそこが起点となって早く熔かすことができると分かり、実施していた銅山もあったということではなかろうか。

結論
 調べた5ヶ所の銅山の江戸期の素吹、真吹では、珪石の添加操作はなかった

珪石の添加は、あった可能性も残っているので、今後も気にかけておこう。

注 参考文献
1. 筆者が別子銅山で初めて珪石らしきものを添加した記録は以下ものである。
ラロックによると、明治7年(1874)6月~11月の間に330回の素吹作業を行った結果の物質収支が記録されており、1回あたりに換算すると 仕込:焼鉱 609kg  泥質片岩 40kg 木炭 225~262kg 
 二つ目には、 明治13年(1880)第2内国勧業博覧会出品説明書である。
 ① 素吹 1日の工業は、[焼鉱480貫目]・ [鍰70貫目]・ [千枚(雲母板石)36貫目] を熔融するに、木炭210貫目を消費して、鈹135貫目を得る。(筆者注 鈹135貫は最も多い時である)→1回に換算すると 
 仕込:焼鉱600kg 鍰87kg 雲母板石45kg