気ままな推理帳

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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(14)

2020-06-21 08:35:35 | 趣味歴史推論

 次に江戸時代の鉱山の技術書で、素吹で珪石が添加されている記述がないかを調べてみる。
まず、佐藤信淵(のぶひろ)が文政10年(1827)に校正した「山相秘録」を調べた1)。祖父・元伯は医者であったが、羽州松岡鉱山(銀山)を繁栄させた実学研究者でもあったので、その口伝をもとに信淵が記したものである。2)3)銅山の記述は金山、銀山に比べ少なく、関係ありそうなところのみを抜粋して以下に示した。

銅鉱には多少はあれども、何れ鉛気及び金銀の気を含有するものなり。然れども皇国諸州の銅には、鉛を多く混ずるは稀なり。銀を含有するの銅は甚だ多し、故に外国にて日本銅を貴ぶこと世界の第一とす。---
凡そ銅鉱を煎煉するの炉は、高さ6-7尺、径り4-5尺にし、鋳造炉の如く下に孔を穿つべし。土塀及び風箱を安置すること、大抵 金山・銀山に同じ。最初より火處に鉛を入るゝにも及ばず。又只炭火を入れ、炭を加へて火を熾んに吹き起し、上より銅鉱1-2斗づゝ投じて炭を加へ、頻りに鼓鞴て、又鉱を投じ炭を加へ、此を煎ずること4-5時、銅をよく鎔化して湯の如くなるに至りて、乃ち杉木の竿を以て炉の下の穴をつきやぶりて、その鎔たる銅を流すときは、鎔銅は泉の湧出るが如く流るものなり。兼て其の流下に埴土と砂とを煉り混たる土にて数多の型を造り置きて、その型に流し入れて、方長き板と為すこと、古来諸銅山皆な常例の如し。---

素吹床には、鉱石と炭を投じて鎔化したとあり、珪石の添加については、記載がなかった。

まとめ
「山相秘録」には、素吹での珪石添加の記述はなかった。

注 参考文献
1. 佐藤元伯述、佐藤孝伯註、佐藤信淵校正「山相秘録」巻之下 三枝博音編纂 日本科学古典全書 第9巻 「第3部 産業技術篇 採鉱冶金(1)」の銅山の節p97~100(朝日新聞社 昭和17年 1942)
2. web.湯沢市ジオパーク推進協議会奮戦記(2012.4.2~10)より抜粋
「松岡鉱山から産出される銀は「湯沢銀」と称された良質なものでしたが、鉱脈に断続があったため、しばしば休山と採鉱を繰り返した鉱山でした。慶長年間(1596~1614)の発見後、寛永~寛文年間(1624~1673)に盛大に稼働し、大量の銀を産出したといわれている。寛政8年(1796)、大直利(良質の鉱脈の発見)が続く。文化元年(1804)に大坂屋彦兵衛の所有となると、文化5年(1808)には良質の鉱脈を掘り当て、1日に銀100貫(375kg)、堀子(鉱夫)200人余りという盛況ぶりを見せた。この時、鉱山経営の指導にあたったのが当時の学者である佐藤信淵であった。信淵の祖父・元伯は、松岡鉱山を繁栄させた実績をもとに、秘伝の技術を口伝し、それを信淵が文政10年(1827)に書き記したものが、「山相秘伝」である。」
3. Wikipedia「佐藤 信淵」よりの鉱山関連事項の抜粋 
「明和6年~嘉永3年(1769~1850)。佐藤信淵の先祖は、横手盆地に勢威を張った戦国大名小野寺氏に仕えていたが、民間にあって医業を生業としていたといい、5代前の歓庵(信邦)以来、元庵(信栄)、不昧軒(信景 元伯)、玄明窩(信季 孝伯)と4代にわたって農学や鉱山学など実学研究にたずさわった一家であったという。天明元年(1781年)、父の玄明窩信季が諸国遊歴の旅に出たのでこれに従い、蝦夷地で1年を過ごしたのち、東北地方各地を転々として実学を学び、家学を人びとに講じながら、さらに1年を経た。こののちも遊歴で各地を周る。天明4年(1784年)、日光を経て下野国足尾銅山を訪れ、そこで父とともに銅の精錬や錫の開発などの技術指導にたずさわった。好奇心の強い信淵は、多種多様な知識を誇ってはいたが、どの分野の知識も専門家と呼ぶには中途半端であり、本業であるはずの医学に関してもみるべき著作はなく、また、信淵が称するところの佐藤家の家学(天文・地理・鉱山・土木・兵学など)も個別にみるならば先人の説の受け売りという水準を大きく越えるものではない。しかし、反面では実に幅広く各分野の諸知識を吸収・消化して自らのものにしていったことも確かであり、こうした知識の幅がときに時代の潮流や転換点を鋭敏につかみとらせる原因になっているように思われる。47歳での平田国学との出会いが信淵の学問に国粋主義的性格を色濃くもたせることとなった。文政年間には『宇内混同秘策』『天柱記』『経済要録』を、天保年間に『農政本論』『内洋経緯記』を著しており、その声望はおおいに高まって宇和島藩や薩摩藩からは出入りを許されている。」