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切上り長兵衛の追善供養施主・濱井筒屋は別子銅を運ぶ船の船主だった

2019-03-15 20:53:31 | 趣味歴史推論
「切上り長兵衛は実在した」では以下のように記していた。
慈眼寺の過去帳とその写しに「海山利白信士 宝永五子三月廿九日 銅山ノ切リ上リ長兵衛ヿ(こと) 濱井筒屋施主」とある。正岡慶信(芥川三平)は、住友が立川銅山を吸収合併して大別子銅山とした寛延二年(1749)以降に過去帳に挿入されたとすでに推測しており、筆者もその通りで、寛延二年(1749)~宝暦であると推測する。

本報では、施主の濱井筒屋とはどのような職業の家であったのかを明らかにする。
正岡慶信は、「浜井筒屋は、住友指定の現在の中須賀あたりにあった浜宿ではなかったかと言われている」と書いているが、根拠がはっきりしなかった。1)
そこで筆者は、宝永五年(1708)~宝暦13年(1763)のことが記載されている住友史料叢書の「年々帳一番」、「年々諸用留二番~七番」の計7冊について、井筒屋の名前の出現を調べた。
その結果、年々諸用留七番2)に、「新居浜井筒屋忠七船が別子立川銅山の荒銅を積んで大坂に行く途中、宝暦6年9月16日に兵庫沖で大風雨にあい難船、打荷し、その事後処理に泉屋や役人が多くかかわった」事件が詳しく記載されているのを見つけた。2)

「宝暦6年(1756)9月16日 松平遠江守様御領分の摂州兵庫沖にて、松平左京太輔様御領分の西条新居浜浦井筒屋忠七船、同国別子立川御銅山より出候の銅を積み登り候節、大風雨に遭い難船し打荷を致し候一件の事を左記す 3)4)5)
・予州別子立川御銅山より出候御用荒銅220丸(14.4トン)・白米10俵(0.6トン)・日ノ丸御船印2本・浮綱1本請取之、同国西条新居浜浦井筒屋忠七船同年子9月7日積浮之、同日同所出帆、同12日摂州兵庫津浦へ着岸、同二茶屋浦迄乗出、風悪敷船繋仕罷在候処、同16日八つ半時(午前3時)より大風雨北風強吹候付き、碇引沖へ4~5里程も吹流され、積荷物右御用銅220丸の内140丸(9.2トン)程浮綱付けて荷打仕り、並に白米10俵これまた荷打仕り候、乗組人数は別条無之候、帆柱は無別条、船みよし損じ、桓立損じ、伝馬船なかし、兵庫和田の崎南沖に本船繋ぎ居候処、同18日八つ時分(午前2時)漁船4艘にて兵庫川口へ漕入れくれ候して、西条御船宿十河源蔵方へ沖船頭惣左衛門上り候して、右難船次第申入候、右源蔵方より大坂西条御蔵屋敷御役人中へ注進の為飛札を以て申越候、則ち忠七船水主壱人外に壱人相添、兵庫より早船にて大坂表へ差越、18日夜九つ半(午前1時)時分に此方へ参り着、直に手代兵右衛門を飛脚両人に差し添え西条屋敷へ差遣候、同夜八つ(午前2時)時過ぎ右三人此方へ罷帰る。
・同夜右見届きの為、兵庫表へ罷越候人数、与州銅山支配人太次右衛門、本家手代治左衛門・庄八、供両人上下5人、川筋満水につき出船相成り申さず候、翌19日早朝右人数大坂本家より出立
・翌19日西御番所桜井丹後守様月番、右忠七船荷打一件お届けの為口上書御金方御役所へ友昌持参、則左記
 恐れ乍ら口上
・今般予州別子御銅山御用荒銅220丸の内荷打仕候に付き、御届奉り申上候、御用荒銅積登りの為、殊更別子銅山の儀は、御公儀様御銅山にて御座候に付き、先規に従い日ノ丸御印御免成下され、御威光を以て数年来無滞廻着仕来候、此度荷打候御用荒銅荷打候浦手より取り上げ有るべし御座と奉りあり候らえども、猶恐れ乍らより、御公儀様荷打候浦へ御下知成下され候様奉り願い上げ候、以上
 子9月   泉屋吉左衛門直印
 御奉行様
・以下略  」

この一件で、10か所ほど「新居浜浦井筒屋忠七船」と記録されている。忠七船の船主が井筒屋である。

この船の積荷の総重量は15.0トン。乗組員は沖船頭(惣佐衛門)と水主(十五郎、喜八郎、三右衛門)3人の計4人であった。このことから百石積(15トン)弁才船と推定する。6)船の大きさ、運行状況などは、未調査なので、ここではおよそのことを想像してみる。
荷積み、荷揚げ、途中の日和待ちや風待ちの停泊日数も含めて、新居浜-大坂の往復で20日かかるとすると この1船で銅は年間に 14.4トン×365/20=263トン運べる。別子銅山の産銅量は、宝永4年で約200万斤(1200トン)、宝暦6年で約100万斤(600トン)であるから、宝暦6年で考えると600/263=3+α すなわち忠七船の大きさの船が3+α隻必要になる。7)
これらの船の船主であったと推定する。

「新ゐ浜忠七船」は前報の「宝永六年日記」にあったが、そこには井筒屋という屋号はついていなかった。「宝永六年日記」には 忠七船の他に、与次兵衛・五郎右衛門・太左衛門・左一兵衛・三郎兵衛船 の5つの船名が書かれている(忠七船は船頭が忠七であった、ほかの船も船頭の名で呼ばれていたようだ)。宝暦6年(1756)-宝永6年(1709)=47年も経っているので、前の船と同じではなく、2号、3号になるのであろうか。少なくとも昔の忠七が船頭でない。しかし船に名前は残っている。宝暦6年の船頭は惣佐衛門である。

結論:濱井筒屋は、宝暦年間に別子銅を運ぶ船の船主であった。

さらに、船と荷主との間に入り荷物の積込み・水揚げおよび船の手配などの業務を周旋する業である船問屋も兼ねていたのではないかと考えられる。新居浜浦の口屋と提携していたはずで、濱井筒屋は、大坂への銅運送を一手に任されていたのではないか。
濱井筒屋が住友史料で確認されたことにより、切上り長兵衛の過去帳記載の内容の信憑性が高まったといえる。濱井筒屋は泉屋本店と銅運送で深い関りがあったので、切上り長兵衛の追善供養を泉屋から依頼されたのではないかと思う。

注 引用文献など
1. 芥川三平 「瑞応寺西墓地の怪(下の四)」 新居浜史談347号(2004.7)p12
2. 住友史料叢書 「年々諸用留七番」p53~69 (思文閣、平成13.12、2001)
3. 打荷(うちに) 世界大百科事典 第2版
船舶が航海中暴風雨に遭い,危険が迫ったとき,船頭が船および積荷の安全のため,積荷の一部を海中に捨てること。捨荷ともいう。これによる損失は,このため救われた船主および荷主が共同海損として分担した。15世紀後半からの慣行であるが,17世紀からは,打荷した船頭は,最寄りの港の浦役人に届け,海難を証する浦証文を受ける必要があった。これを怠ったときは,船頭は民事上,ときには刑事上の責任を負わされた。荷打(にうち)。
4. 1丸(まる)=50斤(2019.3.15)は間違いであったので、(2019.5.22)次のように訂正する。1丸=109斤375=65.63kg。訂正の根拠:安国良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」住友史料館報第23号p12(平成4.6 1992)
 「銅の個数を数える丸という単位は、享保期はすべて1丸=109斤375=17貫500目であるが、文化期以降は普通1丸=105斤=16貫800目とするほか、1丸=106斤25、107斤5 とするものもあり、その重量は一定していない。だが船の積載量は、享保期の場合普通240丸=2万6250斤、文化期以降も250丸=2万6250斤であり、銅の個数こそ違えその重量には変化がなかったと思われる。」
5. 精選版 日本国語大辞典より
・沖船頭 江戸時代、船長として実際に船に乗り込む運航の責任者。買積船にあっては商取引の責任者をも兼ねる。廻船の所有者、つまり船主を居船頭と呼ぶのに対する語。乗船頭。
・居船頭 江戸時代、船に乗らない廻船の所有者、すなわち船主。雇われて実際に船を運航する船頭を沖船頭と呼ぶのと区別した。通常二艘以上の廻船所有者で、沖船頭に運航、商売上の取引などの権限を与えた。おりせんどう。
・船問屋 全国各港にあって、廻船と荷主とのあいだに入り荷物の積込み・水揚げおよび廻船の手配などの業務を周旋する業。船宿。廻船問屋。ふなどんや。
・水主・水手(すいしゅ) 船頭・楫(かじ)取りなど役付き以外の水夫。また、船頭以外のすべての船乗りをいう。加子(かこ)。
6. 杉原英昭「江戸海運を支えた弁才船」海事資料館研究年報 vol.31 p1-9(2003)
www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005779.pdf 乗組員の数は、帆走専用化を図った五百石積(75トン)弁才船では約8人。
7. データベース愛媛の記憶>愛媛県史 近世 下>六 別子銅山の開発と稼行
図3-21 別子銅山における産銅量の変遷

図. 「 年々諸用留七番」の濱井筒屋に関する記事








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