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新居浜井筒屋忠七船の名は勇力丸 荒銅を15.75トン積で大坂へ運んだ

2019-05-29 20:51:37 | 趣味歴史推論
寛延~宝暦年間(1750年代)に切上り長兵衛を追善供養した施主の新居浜井筒屋と位牌をお祀りしてきた加藤敏雄家との関係を明らかにして、事実の信憑性をあげたい。そのために、まずその時代の銅船名と船頭名を調べた。
荒銅を新居浜から大坂に運んだ船の名(と船頭名)・量・日時が記されているのは、安国良一の「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」の中の2ヵ所しか見つからなかった。1)2) 以下にその部分を抜粋した。

(1)新居浜における船積み高に関する史料
「大福帳」は、新居浜浦から大坂へむけて船積みされた荒銅高について記した帳簿で、享保12~19年(1727~34)と文化元~嘉永3年(1804~50)の2冊が現存している。享保期のものは後欠の史料で、綴葉装の帳簿のうち最初の1帖が残ったものにすぎない。まず後者についてその体裁を例示する。
  文化元年(1804)子盆後
 7月20日 ・19番 銅250丸 105斤入 (15.75トン) 勇力丸忠七
 8月3日  ・20番  右同断  同  (15.75トン) 伊勢丸林兵衛
(中略)
    〆 3000丸 此貫5万400貫目  但105斤入
     差引
    ・銅 4万8701貫200目  子盆前  為登不足
    ・同4万9198貫700目 子盆后出来辻尤勘定組
    〆 9万7899貫900目
     内
    ・銅5万400貫目    為登(のぼせ、大坂へ登らせること)
    残銅4万7499貫900目
     但、子ノ盆后為登不足
記載型式は、半期毎に発送の日付、年初からの船便の番数、船積み高、船名・船頭を記して、船積み高を合計し、前期末の「為登不足」すなわち在庫高と、当期の「出来辻」の分を合計したものから当期の船積み高を差し引いて、当期末在庫高を産出している。「出来辻」がすなわち産銅高のことであり、これによって文化元年下期~嘉永3年下期の半期毎の産銅高・船積み高が明らかになる。----
また銅の個数を数える丸という単位は、享保期はすべて1丸=109斤375=17貫500目(65.63kg)であるが、文化期以降は普通1丸=105斤=16貫800目(63.00kg)とするほか、1丸=106斤25、107斤5 とするものもあり、その重量は一定していない。だが船の積載量は、享保期の場合普通240丸=2万6250斤(15.75トン)、文化期以降も250丸=2万6250斤であり、銅の個数こそ違えその重量には変化がなかったと思われる。
(2)大坂における廻着高に関する史料  (略)
(3)「勘定組」の産銅高
「銅請払書」の弘化元年(1844)分の為登銅高と船名を抜粋する。( )内の数字は筆者の推定。
・2,050丸  長久丸  (250丸積×8.2回) 
・2,000丸  勇力丸  (250丸積×8.0回)
・1,400丸  伊勢丸  (250丸積×5.6回) 
・490丸   住福丸  (250丸積×1.96回)
為登銅 5940丸 但、105斤入 623,700斤 (374トン)

上記のことと、以前の知見をまとめると以下のようになる。
① 宝永6年(1709)岸段右衛門殿与州銅山へ下ル新ゐ浜忠七船ニ乗船---宝永六年日記
② 宝暦6年(1756)摂州兵庫沖にて、新居浜浦井筒屋忠七船が銅を積み登り節、大風雨に遭い難船した。----年々諸用留七番
③ 文化元年(1804)7月20日 為登銅250丸積 勇力丸忠七----大福帳
④ 弘化元年(1844)勇力丸が為登銅250丸積×8回-----銅請払書

・船頭(船主でもあるはず)忠七は、初代、二代、あるいは三代と世代が代わっているであろうが、代々忠七を襲名していると思われる。
・井筒屋の船名は文化期には勇力丸と名付けられていた。

これだけでは、加藤敏雄家との関連は推理できない。そこでそれ以降の船や船頭、船主の記録を探した。明治初期の廻船は、黒川裕直によれば以下のようである。3)

明治5年(1872)4月26日 新居浜浦の船持調書(100石以上の船のみ抜粋) 
伊勢丸 船主 青木彌太郎  12反帆 100石積 3人乗 沖船頭合田太平
住福丸 船主 藤田松左衛門 10反帆 150石積 3人乗 自分乗
住栄丸 船主 秋月林兵衛  15反帆 270石積 6人乗
住宝丸 船主 加藤徳太郎  14反帆 200石積 4人乗 沖船頭 明星蔵
蛭子丸 船主 加藤茂吉   11反帆 110石積 3人乗 自分乗
住久丸 船主 白石亀太郎  15反帆 200石積 4人乗 沖船頭 原亀吉
栄徳丸 船主 白石要蔵   10反帆 100石積 3人乗 自分乗
明神丸 船主 明星八百吉  12反帆 110石積 3人乗 自分乗  
これらの大多数は別子銅山のT銅(産銅の名称)その他の住友の荷物を主に運んでいた様である。しかし白水丸その他汽船に積荷を取られる様な事があれば「口過ぎ(生計をたてること」が出来なくなるので何とかしてほしいと明治5年11月銅廻船中の徳太郎、林兵衛、松左衛門、亀太郎から陳情書が出ていた。

また積荷の減少をくい止めるため、明治15年(1882)7月18日、新居浜浦の銅廻船和船の船主が「荷物廻漕に関する定約書」として大坂住友吉左衛門殿代理人である広瀬祖殿に指し出した書類には、7艘の船名と船主名が書かれている。
定約書の内容:新居浜より大坂・神戸、其の他諸湊へ運送する別子銅山の「T銅」その他の荷物を私共所有の和船を持って廻漕負担仕候に付ては、---以下の御定約申上候。
海上保険に係る条款
  第2条 播磨灘は最も危険の場所に付向後夜間の航海を廃し昼間のみ航海可致候事。
  第4条 沖乗船頭を相廃し、各船主自ら船頭となり航海上の安寧を要務とし且つ荷物の取扱い鄭重に可致候事。----
荷物取扱に係る条款
  第1条 T銅並にその他の荷物運漕の儀は可成此定約書に連署の船主に御申付被下候事。
  第2条 以下略

 虎吉丸船主 加藤寅之丈
 明神丸船主 明星長太郎
 明神丸船主 明星定吉
 長久丸船主 白石寅吉
 喜栄丸船主 神尾造
 明徳丸船主 酒井徳蔵
 福吉丸船主 青野庄兵衛(加藤庄兵衛が青野を継いだ名)
  保証人  増田盛造

 上記の結果をまとめると以下のようになる。
・明治5年には、伊勢丸、住福丸はあるが、勇力丸はなくなっている(船の寿命?)。長久丸は明治15年にもある(船名は同じでも後続の第2か?)
・忠七(襲名した)がいない。

結論として、勇力丸、忠七、井筒屋の名が、弘化2年(1845)~明治5年(1872)間に途絶えてしまっていたことがわかった。次は加藤家の方から探ってみる。

今後 新居浜浦銅廻船名・船主名・船頭名が期待できる古文書
1. 大福帳 享保12年(1727)最初の1帖
2. 宝暦14年(1764)新居浜浦惣改帳
3. 寛延元年(1748)新居浜浦廻船石数改帳

100石積以上の廻船で、船主の姓が「加藤」なのは、次の3名である。
・加藤徳太郎 住宝丸  200石積 ----明治5年
・加藤茂吉  蛭子丸  110石積 ----明治5年
・加藤寅之丈 虎吉丸 (200石積)----明治15年

注 引用文献など
1. 住友史料館からの回答(令和元年5月20日 2019)
「当館所蔵史料のなかで、新居浜から大坂へ銅を運んだ船の名前や、船頭名が一覧になったようなデータは、今のところ確認できていません。安国良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」の中で引用された史料「大福帳」には、わずかに船の名前が示されている箇所がございます。ここに見える「勇力丸」「伊勢丸」のほか、「長久丸」という船も運行していました。いずれの船も、積載量は、250丸×105斤=2万6250斤(15.75トン)と判明しています。また、これらの銅船以外に、「飛船」(ひせん)と呼ばれる小型の船が運航していた時期もありました。「大福帳」は本来、大部の冊子だったと思われますが、現存するのは冒頭の1帖にとどまり、全容は不詳となっています。この史料は錯簡が非常に多く、現時点で復元も難しいことから、公開史料の対象とはしておりません。あしからずご了承ください」
2. 安国良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」住友史料館報第23号p10(平成4年6月 1992)
3. 黒川裕直「予州新居浜浦」p132 p147(昭和50.1.10 1975)


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