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享保期の廻銅船は、忠七船、庄五郎船、勘右衛門船の3船であった

2021-10-31 08:27:20 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋に関する初期の情報は以下のとおりであった。1)
① 忠七船の初出は「宝永六年日記」の「宝永6年(1709)岸段右衛門殿与州銅山へ下ル新ゐ浜忠七船ニ乗船」である。
② 船主の忠七が濱井筒屋の屋号を使い始めたのは、享保10年(1725)である。

 最近の安国良一「近世の別子銅山と瀬戸内海運」(住友史料館報第52号)が明らかにした事を以下に記す。2)
1. 享保期(享保12~19年(1727~1734))において、銅240丸積載した廻銅船は、3船あり、庄五郎船(新居浜船籍)、忠七船(新居浜船籍)、勘右衛門船(垣生船籍)であった。享保17年以降に重左衛門船(新居浜船籍)が追加された。→表
2. 一般に古い船は難破の危険性が高く、荷主はできるだけ年数の浅い船を好む傾向にあった。享保5年~明和9年(1720~1772)の銅船の建造後年数を調べたところ、1~6年で7年以上の船は見られず、多くが5年以下であった。こうしたことから、和船は長くても6年程で造り替えられたことがわかる。
3. 銅船は決して廻銅専用船でなく、廻銅の合間に廻米に携わることもあった。
4. 註(7)に勇力丸の船主の変遷を記している。
 「忠七(文化元~文政4)、庄右衛門(文政5~7)、庄左衛門・忠七(文政8)、庄左衛門(文政8~天保6)、庄左衛門・忠七(天保7)、忠七(天保8~弘化3)」

考察
1. 忠七船の占める割合を計算する。
 享保12年について船積みした別子銅の全量は、上記3銅船 240×(11+11+10)+その他の船(240×4+70×1+50+94+57×3+230+40+30)=3銅船(7,680)+その他の船(1,645)=9,325丸
別子銅山享保期の1丸=109斤375(65.6kg)なので、船積み全量=109斤375×9,325=1,019,922斤(612トン)となる。
一方 出典は「大福帳」と同じであるが、既出のデータとしてある為登銅高(船積み高)は、享保12年=上期 5,070丸(554,531.250斤)+下期3,578丸(391,343.750斤)=8,648丸(945,875斤)である。4)これは、9,325丸/8,648丸=108%と8%ほど違いが見られるが、この為登銅高の方がより正確なはずである。
よって忠七船の占める割合は、(240×11)/8,648=30.5%である。すなわち3割の為登銅が浜井筒屋忠七船で運ばれたことがわかった

2. 勇力丸は、浜井筒屋が船主であるが、その船主について
 文化元年(1804)~弘化3年(1846)に時期に、慈眼寺の過去帳(→濱井筒屋年表1))に記載された浜井筒屋の当主と思われる人物は、次の2名である。
 五兵エ(没年文化7年(1810)6月8日)---5代と推定
 嘉平 (没年嘉永5年(1852)7月7日)---6代と推定 
 船主の変遷として5つの名前が記されているが、実際は2名であったのではないかと筆者は推定する。船主としては、井筒屋忠七の名が代々使われていたが、届け出の文書に、自分の名前を書いたのであろう。
よって、文化元年付近は 5代の五兵エであり、それ以降の「庄右衛門、庄左衛門、庄左衛門・忠七、忠七」は、6代の嘉平であったのではないか。
嘉平は、一時期 庄右衛門となり、ついで改名して 庄左衛門となったのではないか。あるいは、庄右衛門は庄左衛門の文書上での書き間違い、読み間違いの可能性もある。

3. 忠七船の他に大手として、庄五郎船(新居浜)と勘右衛門船(垣生)があることがわかった。庄五郎、勘右衛門の子孫の家に切上り長兵衛の情報がないであろうか。

まとめ
 享保期の廻銅船は、主に、忠七船、庄五郎船、勘右衛門船の3船であり、浜井筒屋忠七船は3割の為登銅を運んだ
 
注 引用文献
1. 本ブログ「切上り長兵衛を追善供養したのは、濱井筒屋忠七・三左衛門で、半鐘の寄進者である」2019-06-22
2. 安国良一「近世の別子銅山と瀬戸内海運」住友史料館報 第52号 p351(住友史料館 令和3年 2021)
3. 本ブログ「新居浜井筒屋忠七船の名は勇力丸 荒銅を15.75トン積で大坂へ運んだ」2019-05-29
4. 安岡良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」住友史料館報 第23号 p57(住友史料館 平成4年1992)付表7

表 享保期廻銅船の船名と運行回数と積載量
 


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