気ままな推理帳

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「宝の山」の「切上り」は、田向重右衛門が長兵衛から聞いた話を手代に書かせたのだろう

2021-04-11 09:06:13 | 趣味歴史推論
 「宝の山」は、有望な銅山を探すのに必要な全国の鉱山情報を記録した文書であり、宝永末年~元文5年(1710~1740)に泉屋の手代によって書かれた。1)このなかには「切上り長兵衛」が働いた鉱山や集めた情報が記されている。執筆者の手代は、誰からこの情報を入手したか。「切上り長兵衛」は、新居浜井筒屋加藤家にある位牌によれば、宝永5年に没しており、大坂泉屋に出入りしたという記録もないので、手代が「切上り」から直接話を聞くことはできなかった。では誰が、切上りから話を聞いて手代へ伝えたのか。田向重右衛門の可能性について考察した。
田向重右衛門は、承応3~享保9年(1654~1724)享年71 である。「宝の山」の執筆が始まった宝永末年(1710)から重右衛門死去の享保9年(1724)間の動向を調べた。特にその間、大坂本社で執筆する手代へ「切上り」の情報を伝えることができたかどうかの観点から、住友史料で探し、重右衛門年表を作成した。

田向重右衛門年表
・吉岡銅山の支配人 泉屋第一次稼行は、延宝8年(1680)~貞享2年(1685)~元禄11年(1698)の間の18ヶ年。大水抜通洞開削がなされた。(貞享2年冬~元禄4年は、杉本助七が実質上の支配人であった) 泉屋第二次稼行の元禄15年(1702)~正徳5年(1715)では、大坂本社にいた。
・別子銅山の見立と開坑(元禄3~4年(1690~1691))
・宇摩郡別子山村の内、足谷見分は、元禄3午の秋、泉屋十右衛門・原田喜兵衛・山留治右衛門備中より渡る。その節備中に炭焼居候予州新居郡新居浜松右衛門と申者案内致候。2)
・住友友信より、家督を下さる(元禄6年(1693)) 吉岡銅山は、元禄4,5,6年に産銅高が非常に大きく出来た。田向重右衛門と杉本助七に家督を下さる。3)
・元禄7年(1694)大火の報告と復興
元禄13辰年(1700)4月21日 山木代官へ目見・取持の覚に、重右衛門の名あり。(山木与惣左衛門は、元禄9~14年に別子銅山支配の代官であった。)4)
・宝永3年(1706)11月2日 勢州宮川堤際より出火して、伊勢御師谷一郎兵衛の家屋が全焼したので、12月5日、重右衛門方にて50両合力した。5)
・宝永3年12月 土山市左衛門が事情あって無心、重右衛門方へ呼び寄せ15両貸した。6)
宝永6(1709)年5月13~26日 丹波国天田郡岩屋村の梶浦七郎右衛門より重右衛門方へ、丹波の銅山の見分依頼で鉑石に状が添えられてきた。しかし、重右衛門より、銅山は望なしの返事の状を出した。7)
宝永6年(1709)6月19日 長崎より銅支配人衆が、長崎や五郎兵衛方へ上着致し候由、重右衛門より申し来る。8)
宝永6年(1709)12月24日 泉屋重右衛門所にて、餅つき申し候。9)
享保9年(1724)正月21日 予州別子銅山初発之書付(住友友昌公あて)
享保9年(1724)没す

「宝の山」の「切上り長兵衛」の記録
・三河 つぐ(津具)金山   但切上り若時稼居申由、様子聢覚不申候
・美濃 はたさ(畑佐)銅山  但切上り若き時稼居候えども、様子聢と覚不申候
・出雲 さつめ(佐津目)銅山 但少々銅出申候、未稼方可有之様に切上り申候、直に見分不仕候
               但切上り咄しにては、いまだ稼可成とも申候
・越前 おも谷(面谷)鉛山  但切上り若き時稼居申候えども、様子聢と覚不申候
・出雲 橋波銅山       但先年切上り長兵衛稼止め
・石見 亀井谷銅山      但先年切上り新見立引割、草際上競取、下𨫤に〆10挺だけ下喰〆、青石成候由
・播磨 桜銅山        右は世間にては未稼方可有之様に申候えども、先年切上り致しかゝり、競にかゝり候時分、人手に渡り、大競取候て仕詰め乱喰〆、切上り申候
               但昔は大競有候由、切上り稼申候由
・豊前 かわら(香春)銅山  〆はみ出し、不宜止め申候、切上り申し候
・豊後 尾平蒸籠(おびらこしき)銅山    但古山にて切上り取り明け、水貫切、𨫤なし、鉑鶴のはし掘り、切庭50挺前程有之、歩無数、360貫目吹、床尻30貫目、これを吹き直し12貫目、皮70貫目に銅21貫目、〆て銅33貫目程、大方200斤と見え申候、右代100斤180匁位致候由、足り120匁位も有之様覚候由* 右煙り大分人にあたり腫申由、それ故その後致し候者無之由。
              *糺吹(ただしぶき) 荒銅100斤につき、足り(たり 垂銀、得られる灰吹銀のこと)が丁銀で表される。
・豊後 大平銅山       但銅金𨫤にて役立不申由、その後切上り致候由
・薩摩 あくね(阿久根)銅山 いらず(不入)山と申して、材木山に被仰付候、山内に銅山之新見立有之由、予州金子村弥市右衛門・新五右衛門 先年林木山に請申由、定めて是に鉑石可有之由、切上り申候、重ねて尋可申候

「宝の山」の「庄屋長兵衛」の記録
享保10年巳4月 手代平左衛門・重助 左に記し候山見分之覚書(上記とは別の手代の記録である)
・石州邑智郡岩屋村(鉛山)
  右4ヶ所は残らず銀山領・九き(久喜)山の境目、山峰表裏近い迄にて候、前方別子銅山に居り申し候庄屋長兵衛稼ぎ居り候由、相止め4,50年にも相成り候由
・石州下道川村古鋪
  但これは44~45年以前に桑名や仁兵衛、すなわち別子銅山に居り申し候庄屋長兵衛が世話致した、が稼ぎ申し候由、間符数ヶ所、尤もこの内銀山と申す古敷も在之候、右場所は村より3里余り南へ入深山にて大木大分在之、広嶋境へ1里半在之、先年銅山繁栄致し候由

考察
1. 重右衛門は、吉岡銅山の第一次稼行が終わった元禄11年(1698)から大坂本社に勤務していたと思われる。元禄13年(1700)に大坂での山木代官へ目見・取持の席に参列している。そして宝永6年(1709)には、鉑の見立て、長崎より銅支配人衆の接待、本社手代たちの餅つきをしていることから、大坂本社に出入りしていたことがわかる。宝永6年は、ちょうど「宝の山」を手代が書き始めた頃である。よって、時期的、場所的に執筆する手代とかなりの接触が出来たに違いない。手代もその道の第一人者から情報を集めようとしたに違いない。

2. 「宝の山」では、単に「切上り」とだけある。しかしこれは明らかに固有名詞である。普通なら、少し説明(例えば、山留とか山師とか---)を付けるのだが、そうはしていない。それだけでわかるからこれでよいのだ。例えば「三河津具金山 但切上り若時稼居申由、様子聢覚不申候」は、内容からして、「切上り」を記録したいから書いたとしか考えられない。たいした情報はない。それでもわざわざ手代が書いたということは、「切上り」に感謝をこめて記録に残したいという重右衛門の指示があったからではないか。
文体を見ると、「切上り----致し候由」 と「由」の付いたものと 「切上り---申候」と由の付かないものがある。「由」は伝聞を表しているので、「切上り」と執筆者の間に誰かが入り伝聞役をしていることがわかる。一方、「由」なしは、伝聞文ではないので、執筆者が直接「切上り」から聞いた形になっている。しかし執筆当時に「切上り」が生存し大坂にいたことはあり得ないことである。よって、「由」のない文も誰かが伝聞役をしていたにも拘わらず執筆者が「由」を書かなかったと見るべきである。誰が伝聞役をしたか。それはもう田向重右衛門以外には、考えられない。細かな情報もいくつかある。これを記憶しておくことは、各地の鉱山情報をいつも注意していた重右衛門だからできたことである。

3. 享保10年(1725)の別の手代の記録にある「庄屋長兵衛」は「別子開坑時に別子で働いていた切上り長兵衛」を指していることは、以前に本ブログで指摘した。10)

4. 重右衛門は、執筆する手代から、別子見分の際の同行者の名前を確認されたに違いない。重右衛門の記載当時の記憶は正確である。この項に、なぜ別子銅山見分のきっかけは「切上り」の情報によると書かれていないのか。考えられるのは、
①「宝の山」の執筆目的は、新に有望な鉱山を見つけるために種々の鉱山をリストアップしようということなので、既に別子は操業中なので、細かいことは記載する意味がない。
②いつか「宝の山」を幕府役人に見せざるを得ない時に、立川銅山で働いていた「切上り」が情報をもたらしたということが記されていない方が、問題がない。立川銅山と抜け合い等で争いごとが起きている時に、わざわざ記したくない。重右衛門がこの項には「切上り」のことは書くなと言ったのではないか。
元禄16年(1703)7月に銅座役所へあてて、泉屋孫兵衛・大坂屋八右衛門からさし出した、諸国銅山覚書には、211ヵ所が挙げられている。これは、勘定奉行の諮問に応じるためになされたようである。11)「宝の山」でも同様なことが起こりうる。

まとめ
 「宝の山」執筆開始時に、田向重右衛門は、大坂本社に出入りしていたので、時期的場所的に「切上り」の伝聞役に成り得た。内容からみて、あまり役立つとは思えない「切上り」の情報が記録されていることから、田向重右衛門が、「切上り」の情報を手代に伝え、それを記すように指示したと推測する。重右衛門の「切上り」に対する感謝の表れと思う。


注 引用文献
1. 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」(思文閣 平成3年 1991)
2. 「宝の山」P116
3. 住友修史室「泉屋叢考」第12輯P59(昭和35年 1960)
4. 住友史料叢書「鉱業諸用留」p208(思文閣 平成元年1989)
5. 住友史料叢書「年々帳一番」p188(思文閣 昭和60年 1985)
6. 「年々帳一番」p189
7. 住友史料叢書「宝永6年日記」p35(思文閣 平成8年 1996)
8. 「宝永6年日記」p45
9. 「宝永6年日記」p112
10. 気ままな推理帳「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」2018-11-15
11. 住友史料叢書「銅座御用扣」p344 解題(今井典子)p15(思文閣 昭和64年 1989)


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