気ままな推理帳

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「別子御銅山未来記」の金十郎は濱井筒屋忠七船に乗って新居浜へ帰った

2019-07-19 08:11:24 | 趣味歴史推論

切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋に関する情報をできるだけ多く集めることにより、過去帳や位牌に書かれたことの真実性を高めたい。そのために住友史料の中に濱井筒屋を探している。今回は、「予州別子御銅山未来記」1)2)の中に見つけたので報告する。

金十郎は明和3年(1766)5月2日、重左衛門船に乗って新居浜を出帆し、12日に大坂九之助(くのすけ)町の泉屋傳右衛門宅に着いた。傳右衛門は、金十郎の母へ旅費を与え、金十郎母子は伊勢神宮に参詣し、22日に傳右衛門宅に帰着した。逗留中、切上り長兵衛の遺言の秘伝を密に物語った。金十郎は母・弟元七・その友4人を同伴して、6月15日忠七船に乗り大坂を出帆し新居浜へ帰った。」

遺言を伝えた金十郎が濱井筒屋忠七船で新居浜へ帰っていた。濱井筒屋と泉屋がかなり親しい関係にあったことがわかる。
密に物語った時に、長兵衛の死に様(宝永5年(1708))や追善供養(50回忌としたら宝暦7年(1757))の話は全く出なかったのであろうか。

注 参考文献など
1. この記は、切上り長兵衛が別子の大鉱脈を見つけその存在を備中吉岡銅山の泉屋田向重右衛門に知らせ、田向らが見分した事、長兵衛が今後の大きな鉱脈のあるところを推定し親友源四郎に遺言として残した事、その遺言がその孫に傳えられ、大坂の泉屋傳右衛門3)に語られそのことを傳右衛門自身が住友友俊の命により書き残したものである。(明和3年(1766)6月15日、開坑から75年経っている)
2. 遺言は、以下の流れで伝えらえた。
切上り長兵衛→親友・源四郎→源四郎の子(兄)・九左衛門→源四郎の子(弟)・半右衛門→半右衛門の子(兄)・金十郎泉屋傳右衛門(聞き手、書き手)
あと登場人物としては、金十郎の弟・元七と母である。(元七は幼少より傳右衛門方に勤仕し、母も身を寄せ世話になっていた)
3. 泉屋傳右衛門について
住友史料叢書「年々諸用留七番」、「別子銅山公用帳五番・六番」に関係した事項が多く記されている。安国良一「予州別子御銅山未来記を読む」住友史料館報第38号p1(平成19年7月 思文閣)に簡明な紹介文があるので抜粋して以下に示す。
「伝右衛門は江戸出身で、中橋店・浅草店役頭を勤め上げ、いったんは父の生地下野国佐野に帰っていたが、宝暦8年(1758)に5年間の約束で大坂の本家勤めを命じられ支配人となった。明和元年(1764)には老病保養のため退役願を出して、跡支配兵右衛門と交代したが、生国帰還は認められず、九之助町に隠居所を建て替え、鰻谷の毛綿店の名義人となって、病気に障りのない時は本家勤めも命じられた。本家支配退役後は、本家・豊後町家支配人の上位にあって御両家参事の肩書で史料に登場する使用人の筆頭であった。彼をこれほどまで取り立てたのは、住友家五代友昌の病中にあって住友を切り盛りした豊後町家の友俊(友昌弟)であり、その信任は厚かった。」