私が被災地に入るのは7回目です。
今回は、泰阜村で実施する事業のための視察です。
宮城県登米市に本拠地をかまえ、気仙沼、南三陸、石巻の沿岸地区の被災地支援を行うRQ市民災害救援センターの活動を視察しました。
特に、全国から多くの青年ボランティアを集めて、半年以上もボランティアセンターを運営しているマネジメントについて。
NPOグリーンウッドの若手スタッフも同行しました。
彼らは初めて宮城県の被災地に入るので、RQの本拠地に入る前に、土地勘が芽生え始めた私がいくつかの場所を案内しました。
東松島市野蒜地区。
東松島市のなかでも多くの犠牲者を出したところです。
何度かこのブログでも紹介していますが、私の知り合いの教員が勤める中学校(鳴瀬第二中学校)が津波の被害にあいました。
校舎を津波が突き抜け、3名の生徒が犠牲になりました。
その被害の様子、4月29日のブログで詳しく紹介しています。
ぜひご覧ください。
▼成瀬第二中学校の校門。校庭のど真ん中まで流されていた
この成瀬第二中学校に3ヶ月ぶりに足を運びました。
4月29日のときと比べると、校舎内の瓦礫はきれいに撤去されていました。
がらんどうになった校舎は逆に、もう二度とこの場にこどもの声が戻ってこないことを意味しているようです。
津波襲来の時間で止まった時計を見つめながら、埃が混じる潮風を身体中に受けて、ただただ佇むだけでした。
▼地震のあった2時46分の1時間後に津波が襲った
石巻市大川小学校。
もう説明する必要がないほどマスコミで紹介されている悲劇の小学校です。
74名もの小さな命が散ったその地に、私はこれまで6回の被災地訪問でついぞ足を運べませんでした。
被災地の現実を直視するために足を運んできているにもかかわらず、なぜ自分がこの地に足を運ばなかったのかは、今回この地を訪れてようやくわかりました。
遺族が次々と訪れる大川小学校前の献花台。
私がその場で手を合わせることすら憚れましたが、それでも合唱をして小さな命に向き合いました。
▼献花台。訪れる人々が耐えない
- 生きたい -
この地には、こどもたちの無念の想いがさまよっている。
この無念の想いを受け止める覚悟が、私にはなかっただけなのです。
生きることの願いを奪う権利は誰にもありません。
でも、この地ではあっという間に74もの願いが奪われた。
献花台の前で遺族の後姿を見つめていると、海のかなたに自分が放り出されてしまうようなすさまじい勢いで気が遠くなりそうでした。
そして本能のまま身体が震えるのです。
身震いするとはこのことかと。
私たちは、こどもを核とした教育活動を通しての支援活動を志向してきました。
そして暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)に1年間の長期にわたって被災児童3人を受け入れました。
夏には「信州こども山賊キャンプ」にフクシマのこども47人を招待しました。
今後もこどもを核とした支援を続けます。
しかし、「支援」って何なのだろうか。
大川小学校の地に立ち、海のかなたから聞こえてきた小さな命の無念の叫びに、改めて自問自答するのです。
「支えあう」
それはきれいごとはでありません。
うわべだけでもありません。
絶望の縁から立ち上がろうとする被災地の人々。
その人々が流す血の涙を、私たちはどう支えるのでしょうか。
そして、支えようとする私たちが流す血の涙は、いったい何なのでしょうか。
▼この母の想いにどう応えるのか
すみません、想いが先走り、RQ市民災害救援センターの活動を視察するところまで進みませんでした。
次回の紹介にさせてください。
今回は、泰阜村で実施する事業のための視察です。
宮城県登米市に本拠地をかまえ、気仙沼、南三陸、石巻の沿岸地区の被災地支援を行うRQ市民災害救援センターの活動を視察しました。
特に、全国から多くの青年ボランティアを集めて、半年以上もボランティアセンターを運営しているマネジメントについて。
NPOグリーンウッドの若手スタッフも同行しました。
彼らは初めて宮城県の被災地に入るので、RQの本拠地に入る前に、土地勘が芽生え始めた私がいくつかの場所を案内しました。
東松島市野蒜地区。
東松島市のなかでも多くの犠牲者を出したところです。
何度かこのブログでも紹介していますが、私の知り合いの教員が勤める中学校(鳴瀬第二中学校)が津波の被害にあいました。
校舎を津波が突き抜け、3名の生徒が犠牲になりました。
その被害の様子、4月29日のブログで詳しく紹介しています。
ぜひご覧ください。
▼成瀬第二中学校の校門。校庭のど真ん中まで流されていた
この成瀬第二中学校に3ヶ月ぶりに足を運びました。
4月29日のときと比べると、校舎内の瓦礫はきれいに撤去されていました。
がらんどうになった校舎は逆に、もう二度とこの場にこどもの声が戻ってこないことを意味しているようです。
津波襲来の時間で止まった時計を見つめながら、埃が混じる潮風を身体中に受けて、ただただ佇むだけでした。
▼地震のあった2時46分の1時間後に津波が襲った
石巻市大川小学校。
もう説明する必要がないほどマスコミで紹介されている悲劇の小学校です。
74名もの小さな命が散ったその地に、私はこれまで6回の被災地訪問でついぞ足を運べませんでした。
被災地の現実を直視するために足を運んできているにもかかわらず、なぜ自分がこの地に足を運ばなかったのかは、今回この地を訪れてようやくわかりました。
遺族が次々と訪れる大川小学校前の献花台。
私がその場で手を合わせることすら憚れましたが、それでも合唱をして小さな命に向き合いました。
▼献花台。訪れる人々が耐えない
- 生きたい -
この地には、こどもたちの無念の想いがさまよっている。
この無念の想いを受け止める覚悟が、私にはなかっただけなのです。
生きることの願いを奪う権利は誰にもありません。
でも、この地ではあっという間に74もの願いが奪われた。
献花台の前で遺族の後姿を見つめていると、海のかなたに自分が放り出されてしまうようなすさまじい勢いで気が遠くなりそうでした。
そして本能のまま身体が震えるのです。
身震いするとはこのことかと。
私たちは、こどもを核とした教育活動を通しての支援活動を志向してきました。
そして暮らしの学校「だいだらぼっち」(山村留学)に1年間の長期にわたって被災児童3人を受け入れました。
夏には「信州こども山賊キャンプ」にフクシマのこども47人を招待しました。
今後もこどもを核とした支援を続けます。
しかし、「支援」って何なのだろうか。
大川小学校の地に立ち、海のかなたから聞こえてきた小さな命の無念の叫びに、改めて自問自答するのです。
「支えあう」
それはきれいごとはでありません。
うわべだけでもありません。
絶望の縁から立ち上がろうとする被災地の人々。
その人々が流す血の涙を、私たちはどう支えるのでしょうか。
そして、支えようとする私たちが流す血の涙は、いったい何なのでしょうか。
▼この母の想いにどう応えるのか
すみません、想いが先走り、RQ市民災害救援センターの活動を視察するところまで進みませんでした。
次回の紹介にさせてください。
代表 辻だいち