ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

肉より魚が多くなり

2014年05月24日 19時17分45秒 | 山菜採り
30歳頃まで海が近い町が私の考える世界観の基軸になっている、小さな町の名は輪西町で日本製鉄の城下町で町の広さは西海岸方面は製鉄所が全て占有していて、工場の堤防まで大きな船が横づけ出来る海岸で一般の人は立ち入ることも出来なかった。
工場群の東側に僅かな平地が残されていて、我々が住んでいた町屋が狭い地域で共存し平地の半分は日本製鉄所の職工さんの平屋の社宅が軒を並べていた、その先の東側は山で急ではないが坂道になり一般住宅や社宅の続き、稲荷神社があったり、無論小学校や中学校も山側の奥に位置していた、幼児から通った幼稚園も無論町中でなく坂が続く奥の方に有った。
町中は、商店街が軒を並べ1条通りから13条通りまで面通りはしもたやは少なかった、工場敷地に添って鉄道線路が並行していて、すぐ横を国道が貫いていたその国道から東側150mくらいが商店か中心の輪西町で南側の1条側は山が迫り崖になっていた、北側はずれに当時でも珍しい製鉄所が所有する野球場が存在していた。
今でも、スタルヒンが活躍していた野球のことを思い出すこともある。

東側の山と云うより、丘陵地帯を登りつめた所に旧鶴ヶ崎小学校(新制中学校)があり其処まで行くと太平洋が見えてくる、緑一面の丘陵地帯をそのまま降りて行くと海岸の砂浜にたどり着く、子供のころから砂の上を素足で歩くとキッユーキュウーと音を出す事を知っていた。(鳴き砂)
海岸から北の方を見ると、大きな鯨が打ち上げているように見える鯨半島が見えてくる。

輪西町とイタンキ浜

イタンキとは、アイヌ語で碗の意味といわれている。
昔イタンキ浜から見る「クジラ岩」を霧や飢え等のにより本物のクジラと勘違いし、砂浜に漂着するまで待ち続け、ついには自分達の持っていた箸や碗まで焚き火に使って寒さをしのぎながら、永遠に着くことのないクジラを待ち続けていた、と云う伝説から付いたと推測されている。


この鯨半島に漁師村があり、素人の親父も磯船を所有し保管してもらっていた、無論釣具店をやっていたので前濱で釣りをやっていたし私も乗せてもらった記憶も残っている、何時も生きのいい魚や毛ガニを食べていた。

70歳前半に訪れたイタンキ浜

旬の竹の子と鯵の刺身で


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