ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

悪名時代の遠藤家

2015年01月23日 12時42分57秒 | 釣夜話
映画の勝新太郎時代「悪名」と重なるような遠藤家の時代があった、釣具卸商から発展し遠藤製網株式会社の運営に行き詰まり会社を潰してしまった、大事な息子を失ったり地獄を見た親父は、形振り構わずと残っていた自宅を利用しヤクザの世界と重なる遊廓[花月]を開業する、子供達は自宅から離れた所に借家を借りてお手伝いさんを住まわせ別世帯の環境を整えて遊廓の運営に関わっていた、時折私も帳場に顔を出し悪名時代の遊廓の裏側から現実の世界も見せてもらった。
親も社会勉強のつもりか私の存在を気にもとめていないようだった。
この時私は多感な高校二年生で男になったのも高2時代だった。

別宅の住み込みのお手伝いさんに手を付けてしまった、17歳になった男子相手は5歳も年上のお姉さんだつた、何時までも続く事なく室蘭の番頭各の高久さんにお預けとなる、他人の飯を食べたのも初めてで此処から学校に通っていた。
忘れない青春の一ページとなった。
遊廓その後三年ほとで終わり、今度は道路側を区切って店舗として貸し出す大家さんに変身していった、その間私は高校を卒業し短かった丁雅時代を終えて輪西に帰ってきた、時は昭和50年頃世間は糸編景気の真っ只中だった、何もすることがなく我が家に出入りしていた、軍払い下の毛布をニツカズボンにした商品を一反風呂敷に包んだ荷物を担ぎ行商の見習いで親方の後に付いて行った、実戦で商売の勉強をしていた、その内にもう修行も止めて自分の店を持ち開業ししてしまってはと、貸していた店舗を返してもらい親父は自ら大工仕事で奥行きが浅いが間口の広い衣料品店[越後屋衣料品店]を作り上げてしまった。
同時平行で商品仕入れは、同じ町内会の大阪商人の古物商に同行し大阪の競り場に渡りを付けてもらい競り場で初めての買い物をする、そこを終えると綿物の所の岡崎や戻って岐阜の競り場通い道が開け準備は整って来た、初回はお袋も同伴し私の後見人として見守ってくれていた、母と二人だけの長旅は此れが最初で最期となる、この頃婦人科の子宮癌が見っかり何年も入退院を繰り返すことになる、母まだ50歳頃で二十歳で嫁に来て二年おきに子供を生み、死産を入れて1ダースの子供を生んだと母の口癖だった。
余程親父に惚れていたのか、死もの食いで付き添い命を全うした、それはそれは腹の座っ
た芯の強い女性だった事が良く解って来た。

父母の強力な応援を得て、越後屋衣料品店は開業へとつながる、物さえあれば売れる時代店先は昔の札幌の金市館の店構えで商品が無くなれば札束を腹巻に巻きっけ大阪方面には通った、現金仕入れの現金販売面白い様にものが売れた、売場は店員二名ほど雇い母の手使もあって滑り出しから順調だった、始まった頃はまだ21歳の若僧だった。

魚信と合わせ
小さな魚でワカサギ釣りがあるが、仕掛けを魚に合わせた道具を使うとそれなりの釣の面白さが堪能出来る。、親父は何でも釣って来ていたが真剣に釣り方の研究も兼ねいた、大変良く釣れる魚に食べて余り美味しくないが、岩場の浅瀬で釣れる油子に良く似たハゴトコがいる岩場や海藻が繁茂し仕掛けが失う場所は重りに砂袋を使い紙ひもか輪ゴムで繋ぎ一回一回重りを捨てても惜しくない重りを考え出したり、研究に余念のない親父はだった、そして釣り上げたハゴトコは背割りにして焼くと藁で編み上げ囲炉裏の上に、乾燥してそのまま酒の肴になることもあるが甘露煮で戴くと立派な一品に仕上がる。
ガヤは浮魚だが大きくなるとハチガラやソイ擬きになる、結構美味しく食べられる魚です。
引きはソイが一番だがハチガラの引き込みも釣の楽しさを倍加させてくれる嬉しい魚で見た目は悪いが味はソイ並みと思っている。
圧倒的に当たりが強烈なのはスズキの右に出るものはないと思っている、油断すると竿ごと海の中に引きづり込まれてしまう事がある、何本も遠投げして竿たてに立てているススキは固まって回遊してくるので釣れ出すと巻き上げている途中にで残りの竿の方にも掛かってしまうこともあり、体がひとつには出来ない相談になる。









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