卓袱台の脚

団塊世代の出発点は、狭いながらも楽しい我が家、家族が卓袱台を囲んでの食事から始まったと思います。気ままな随想を!

2022年 輪跡を偲んで‥‥(戸田~大瀬崎)(1)

2022年09月21日 21時54分46秒 | 自転車

2022年 輪跡を偲んで‥‥(戸田~大瀬崎)(1)

 

 

部活OB会の事務局を担当していた5、6年前、古い資料を整理していて半世紀前の部誌(No.17)を見つけました。当時は1年間の総括として合宿報告、個人投稿などを載せていました。ガリ版刷りで10数ページ、印字もかすれ、向きも少し曲がっていたり拙い冊子でした。中にAの投稿として「昭和46年秋 プライベート・ラン(戸田~大瀬崎 10km)」が掲載されていました。冊子の半分以上のページ数、距離僅か10kmちょっと合宿後のフリー・ランの内容で、写真・描画・地図等の無い文章だけのものです。読み返すうちに、余りにも拙く、細かい描写に興味が湧きました。かすれた文字を虫眼鏡で見ながら、手を入れて読みやすく編集、細かい内容(僅かな記憶でほぼ忘却)を実地検証してみたくなりました。7年前の平成27年夏、新潟県三条市・吉ヶ平へ行ったときに続く、第二弾です。

 

昭和46年当時(1971年)は田方郡戸田(へだ)村、現在は2005年より「沼津市戸田」となっているようです。戸田の歴史を調べ、過去のロシア由来の場所を巡るうちに、当時の出発時間(9時40分)を大幅に遅れる11時30分、中央桟橋近くの「戸田三差路」東海バス「戸田」バス停を出発しました。この時すでに゛ほつれ ゛始めたスケジュールが、゛ほころび ゛から数時間後には ゛大きな裂け目 ゛となって身に降りかかるとは、全く予想していませんでした。数日前の予報ではくもり、戸田に入る3時間前は、まだ厚い雲が風にながれていました。しかし、今は、切れ始めた雲間から強い陽射しが降り懸かり始めました。

 

 

…………………………………………………………………………………………

 

 

昭和46年秋 プライベート・ラン(戸田~大瀬崎 10km)

 

9時40分、沼津駅を目指しプライベート・ラン開始、中央桟橋に TA・SA・SE、TSUが沼津まで乗船予定の定期船は見当たりません。走る予定のMUとIIは、まだ船客待合室でのんきに週刊誌や飲み物を楽しんでいます。10分前、8人用テントを担ったMIは、一息も入れず我先にとすでに出発したという。早朝、暗いうちに活気の消えたと思われる戸田港岸壁には、爺さん婆さんが、ここかしこにたむろし立ち話をしていました。都会に住み、スモッグにまみれた私には、この清々しい朝の様子が信じられません。漂う冷涼な空気と素朴な純粋さを肌に感じました。朝陽を受けた伊豆連峰が、それまでの自然の雄大さを物語り、小さな人間をあざ笑うかのように私達を見下ろしていました。あの山並みのなか修善寺まで、砂利の小さく細い道があります。達磨山からの富士の眺望は、素晴らしいことでしょう。しかし、0から735いや山頂982までの挑戦を受ける気力はありません。「伊豆の踊子」の、今にも崩れ落ちそうで苔むした天城トンネルで充分なのです。箱根越えの芦之湯での冷たく寂しい闇を知っていますし、左足の関節があの峠に無謀である事を。

昨年の地理の巡検で、達磨山より戸田までバスで下った時、余りの道の様子が頭を去来します。今崩れたばかりと見える岩石が、鋭利な刃物と化してタイヤに掴みかからんばかり、奈落の使者へとなります。頭上には獲物を狙うヒョーの如く、断崖に引っ掛かった大岩が崩れ留めフェンスなど恐るに足りぬと通る者を待ち受けています。崖沿いに落車すれば身体は一つの石となって、谷に吸い込まれていくでしょう。

 

中央桟橋に立つと、土肥港から眺めた光景がそのまま目の前に投影されます。土肥では300mの崖でしたが、眼前の崖は心持ち低く感じられます。西伊豆のリアス式にも似た砂利道の海岸線は、数少ないガードレールに守られながら、強い風が吹き抜ける狭く細い起伏の多い道です。しかし、眼下に広がる紺碧の駿河湾、白く泡立ち緩やかな曲線を描く定期観光船の航跡、山肌より海辺に直接注ぐ色づいた紅葉、伊豆本来の眺望がここにありました。

売店脇の蛇口より、凍り付きそうな水をポリ水筒に溢れんばかりに流し込み、朝の冷気に冷え一層固く感じられるハンドルを握ります。一息大きく吸い込むと、地面が動き出し景色が背後へ流れました。達磨への道を右手に、人々の目が私を追いました。東北・山陰、四国と愛車は常に従順で、いつ何時でも私の思いに従ってくれました。「可愛いやつ!今日も俺の頼みを聞いてくれるか? 沼津までひとっ走りしてくれ!」。

 

 

…………………………………………………………………………………………

 

戸田峠より県道18号線(修善寺戸田線)を下ってきて、戸田の町中県道17号線(沼津土肥線)との交差点「戸田三差路」とぶつかり、そのまま直進すると戸田港中央桟橋のポンツーン(浮桟橋)に突き当たります。渡り板も含め20mあるでしょうか? 当時の船客待合室に該当する建物が2、3見当たりますが、50年以上前の話を尋ねる気にはなれませんでした。後にググった検索により、どうも角の「セブンイレブン」と岸壁に面した1階がカフェのホステルがそのようです……が?

 

「昭和46年頃、戸田に本社を置く地元企業「戸田運送船」と伊豆箱根鉄道(通称 ゛いずっぱこ ゛?)の2社が、それぞれ沼津・戸田・土肥に定期配船を実施していましたが、地域事情に伴い配船の中止・継続を繰り返し、自治体の補助を受けながら続けていたようです。2011年の東日本大震災で観光客が激減、補助金も打ち切り、定期配船は中止となりました。以後、チャーターやクルージングに応じた運航を行い、夏季の繁忙期? に期間限定で、沼津・大瀬崎・戸田・土肥を巡る航路も設定されているようです。」

 

 

(9月13日 沼津市戸田 「戸田三差路」)

 

 

(9月13日 戸田港 中央桟橋(浮桟橋))

 

 

町の中ロシア由来の場所を巡り疲れて、東海バス戸田待合所で水分を補給する頃には、交差点近く1、2つの食事処ものれんを出し始めていました。

 

修善寺より輪行袋ともども「戸田峠」まで運んでもらった、オレンジ色と薄黄色のシンプルデザインの東海バスが1台待機場所に停車していました。

小田急グループの「東海バス」は、南北・箱根芦ノ湖より伊豆半島一円、東西・伊東/熱海より沼津/三島までを営業定時路線域としています。ただ、土肥・戸田・大瀬崎の一部周辺の海岸線を結ぶ路線はなく、内陸長岡・修善寺との「行って帰り」の状況です。伊東市に本社を置き、地域特性に合わせた事業形態を継続、少子高齢化・人工減少が進む厳しい経営環境の下、伊豆の公共交通機関を担う姿は、やはり「東海バス」の牙城です。本年3月末より、交通系ICカードが導入され、時代に合わせた新たな変化も取り入れていると聞きました。

11時30分、戸田待合所を出発しました。

 

 

(9月13日 東海バス戸田待合所)

 

 

…………………………………………………………………………………………

 

 

家並みの切れた町外れから上り坂となり、汗粒が額を覆い始めました。好奇の眼の工事作業員が一声、「ほれっ、頑張れ」。ブルドーザーの跡は走りにくく至る所穴ぼこだらけ、昨夜の通り雨で水が溜まり、滑りやすくなっています。同じ先輩サイクリストはこんな悪路の時、どんな思いでペダルを踏んだのだろう?…と、一呼吸一呼吸踏み込みます。泥道が砂利へと変わり、唸る松林を抜けると、風圧を苦しく感じるところへ出ました。港が湾曲して眼下に広がっています。「ここで戸田ともお別れだ!」と思ったとき、風雨に晒され耐えている石碑が、道端に一つありました。゛昭和43年8月自衛隊員の協力により開通 ゛とあります。人の強さと自然崩壊を感じる、何とも言えぬ思いが身体を突き抜けました。「今サイクリストで良かった、まだ自然は残っている。今のうちに、今のうちに走らなければ!」。

 

 

…………………………………………………………………………………………

 

戸田の町外れ、家並みが切れると真っ直ぐな坂道が目に入ります。それほどでもない緩傾斜の先は、木々の中へ曲がって消えていました。14~24×48/35で100mほど登坂しますが、即ダウン、押し歩きになりました。バス待合所でペットボトル2本を買い込んでから、数分も経っていません。陽射しの強さが木陰の影となってアスファルトに横たわっています。5分も経つと汗が噴き出し、額よりしたたり始めます。7年前の三条・吉ヶ平がよみがえります。あの時もそうですが、ポタリング程度の日常の自転車との付き合い、運動らしい事もせず、時折の菜園作業がトレーニング…と、Kには開き直っていました。「走れなくても押して歩けば時速4km、上りがあればその分下る」と高をくくっていました。傾斜がキツくなり、「あの木影まで、あの角を曲がったところまで!」と、全く7年前と同じですが、こちらはそれ以上になりました。右手の林の中よりけたたましい複数の犬の鳴き声がし始め、近づくにつれ大きく、何かに吠えかかるような勢いに聞こえました。「野犬かな?」、道端の適当な折れ枝に目をやりました。坂出で野犬の群れに追っかけられた事は、今でも忘れられません。上り(歩き)始めて20分、゛こんなところに歯科クリニック ゛、見通せるビューポイントでしたので写真を撮りました。

 

今回の記録媒体にスマホのサイクル・メーター(CM)APP、ボイスレコーダー(VR)APPを用意しましたが、1年ほど使用経験のあるCM・APPはスタートから不調、VR・APPはほぼ使いませんでした。結局、手書きメモとカメラがその役目を全うしてくれました。

 

 

(9月13日 町外れで登坂開始 11時半頃)

 

 

(9月13日 歯科クリニックからの戸田・砂嘴の眺望)

 

 

クリニックから数分、今回の検証・ランの一つの目的?…である「開通記念」石碑が見えてきました。ここの展望地に「夕映えの丘」とありますが、上着に汗が浮き出て、ハンチングより汗滴がしたたり、息が上がった状態でたどり着いたAには、眺望を1枚撮る気力も起きず、検証写真を撮るのが ゛やっと ゛でした。

 

「この道路建設に当たり陸上自衛隊は県の委託に基づきその施工を昭和41年7月以来通算3期にわたって第102建設大隊に当たらしめ隊員の一致協力と機動力の発揮により施工困難な区間の基礎工事を完成し本路線の開通に大きく貢献した」

「県道 沼津土肥線 開通記念 昭和43年8月 静岡県知事 竹山祐太郎 書」

「沼津市大瀬~田方郡戸田村戸田間 延長 11.2KM 着工 昭和34年8月 竣工 昭和43年8月」

 

あの日あの時、確かにAはこの地この場所にいました。石碑がどのような形で据えられていたか(Aのかすかな記憶では道の今ある反対側)は、どうでも良いことで、その一致した(部誌と)文面が物語っており、思いにふけりながらそのぐるりを2回、3回と回ってしまいました。

峠(戸田峠)に向かうバスの中よりチラッと見えた富士山は、五合目より頂まで望めましたが、ここでは全く全容が雲に隠れています。この県道の特徴か?、これ以後2、3の展望地を除いて海側は木々に遮られ、全く視界・眺望が開けませんでした。疲労困憊し、また高齢化の証か? 西伊豆の素晴らしい同じような眺望に飽きたのか? ここ以後も含め、ビューポイントでの撮影写真は1枚もありません。

 

 

(9月13日 「開通記念」石碑 )

 

 

※ 以後、「2022年 輪跡を偲んで…(戸田~大瀬崎)(2)」に続きます